「世界を変えた男コロンブス」7 パロス

 パロスは現在でこそ特に目立つこともないのどかな海辺の町だが、当時はアンダルシアでも有数の漁業基地としてにぎわっていた。パロスの歴史は1380年ごろにはじまり、15世紀中頃には人口は約2000、カナリア諸島からモロッコ海岸ボジャドール岬沖へさかんに船を出していた。彼らの活動は単に漁業だけにとどまらず、15世紀後半にはポルトガルがアフリカ西海岸で展開する航海事業にも深く参入していった。

 1471年、ポルトガルはギニア湾に入り金の宝庫であるミナ・デ・オロを探し当てる。これ以後、ギニアの富を求めポルトガル船が続々とギニア湾へ出かけるが、それとともにパロスからもミナ・デ・オロに押しかけていった。アンダルシア船のギニア進出は当然のことながらポルトガルの権益を侵害し、両国の間に緊張が深まっていく(1482年、スペインとの交易競争を意識したポルトガルはギニア湾の防衛基地とする城塞兼交易所「エルミナ」【サン・ジョルジェ・ダ・ミナ】をつくる)。さらに王位継承問題が対立を激化させる。1474年12月、カスティーリャ王エンリケ4世が崩御すると、国王の妹イサベルが王位継承を宣言。これに異議を唱えたポルトガル王アルフォンソ5世は、エンリケ4世の娘ファナと結婚し、カスティーリャの国王を名乗る。こうしてカスティーリャ、ポルトガル両国は武力で争うことになり、闘いは陸上のみならず海上でも繰り広げられ、宝庫ギニアの争奪戦ともいうべき様相を呈する。

 この争いは、1479年9月調印のアルカソバス条約で終結。アルフォンソ5世はイサベルの王位継承権を承認し、両国の利害が衝突し紛争の種となっていた大西洋上の島々の帰属と航海権についても合意が成立した。すなわちカナリア諸島とその周辺海域はカスティーリャ、その他の島々の領有権とカナリア諸島以南のギニア方面への航海権はポルトガルに帰属することになった。こうしてカスティーリャはギニアから撤退し、カナリア諸島の征服・開拓に目を向ける一方、1482年からはグラナダの攻略に全力を傾けることになる。

 コロンブスは、ギニアへ向かうカスティーリャ船の一大拠点だったパロスで船乗りを募集するが、まるで人が集まらない。行先が大西洋の西と聞くと、皆、一笑に付して首を横に振った。どこの生まれかもわからず、航海の腕前も全くわからないよそ者とは海に出られないと言った。この状況が一変するのは、ラ・ラビダ修道院のファン・ペレス修道士がひとりの地元パロスの有力者に引き合わせてくれたからだ。その人物とはマルティン・アロンソ・ピンソン。ピンソン家は地中海からカナリア諸島にかけて海運業を営んでいた。長兄であるマルティン・アロンソ・ピンソンは、当時、年齢は50歳くらい。カスティーリャの王位継承をめぐるポルトガルとの争いでは武装船を率い、その名を轟かせた強者だった。コロンブスもピンソンのことを「度胸あり頭の切れる男」と評している。コロンブスとの話し合いの結果、ピンソンはコロンブスに全面的に協力することにし、二人の弟を引き連れ、航海に出かけることにした。ピンソン三兄弟の惨禍を境に船乗りたちの態度に一大変化が生じ、コロンブスは3隻の船と乗組員を手に入れるのである。

 乗組員の募集に苦しむコロンブスとピンソンの間でどのような話が交わされ、どのような取り引きが成立したのか、なにもわかっていない。ピンソンがコロンブスの説明に納得したとしても、無条件で、つまり、何の見返りもなく航海に出かけたとはおよそ考えられない。いずれにせよ、船乗りたちは、ピンソンの説得によって、その航海に参加すればアジアの富、とりわけジパングの黄金が手に入ると夢見た。つまりかれらは、アジアの富に魅せられて乗船した。コロンブスの人柄とか、コロンブスの航海の腕前を信用したからではない。カトリック両王の命令に従ったわけでもない。彼らはピンソンを信用して船に乗ったのである。このようにしてコロンブスの第1回航海は、カトリック両王とラ・ラビダ修道院をバックにしてパロスに乗り込んできたよそ者コロンブスと、航海の現場を担う船乗りたちの人望を集める地元の有力者ピンソンが対峙するという緊張した関係を秘めて進行していくことになる。

「マルティン・アロンソ・ピンソン像」パロス

マルティン・アロンソ・ピンソン

「サン・ジョルジョ・ダ・ミナ」1572年 ポルトガル人が西アフリカ黄金海岸に建設した城塞および交易所

ミナ要塞 2009年 1637年、オランダ東インド会社に受け継がれ、奴隷貿易の拠点となった

コロンブスのアフリカ黄金海岸ミナへの航海の航路

西アフリカ地図

ルイス・デ・マドラーソ「イサベル女王」プラド美術館

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