「世界を変えた男コロンブス」6 「サンタ・フェの協約」
イギリス、フランスへの航海計画の売込みに失敗し、失意に打ちひしがれたコロンブスはスペインを去る決意をする。しかしラ・ラビダ修道院長のペレス神父に励まされ思いとどまる。神父のイサベラ女王宛ての手紙で再びコロンブスに航海計画について説明の機会が与えられた。そして審議が続いている間に、王室最大の懸案事項だったイスラム教徒との戦争が終結した。1492年1月2日、レコンキスタにおけるイスラム教徒の最後の砦グラナダが陥落したのだ。今や両王はコロンブスの請願を考慮することができるようになった。ついにコロンブスの長年の努力も報われるかと思われた。しかし、委員会はコロンブスの計画案を拒絶。コロンブスの計画の価値が否定されたわけではない。彼が要求した報酬があまりにも課題だったため、両王が拒絶したのだ。確かに彼の要求は不遜ともいえるものだった。「大洋提督の称号」、「彼がスペインのものと領有宣言する一切の新発見の土地の副王兼総督への任命とその称号を世襲とすること」、「征服ないし交易によってその土地から得られる収入の10分の1」などだ。もはやこれまでと思ったコロンブスは、フランスに向けてグラナダを出発する。15キロほど進んだプエンテ・ピーノス橋まで来た時である。急使が追いついてきて、問題を再考するから引き返せ、という女王の命令を伝えた。
何がこの逆転劇を生んだのか。改宗ユダヤ人でアラゴン王国の経理官ルイス・サンタンヘルとジェノヴァ商人フランチェスコ・ピネロの二人の人物だ。二人が相談してコロンブス案の実現に必要な資金の大部分を調達できることになったので、イサベラ女王に決定の変更を促したのである。サンタンヘルの説得のポイントは3つ。
①コロンブスの航海が成功すれば、カスティーリャはポルトガルが数十年かけて営々と積み上げてきたアジア到達への努力を一挙に打ち砕き、アジアとの交易を独占することができる。
②グラナダ攻略戦が終結した結果、誉れをあげる場を失った何千というイダルゴ(下級貴族)に新たな活躍の場を与えることができる。
③けっして高い買い物ではない。航海が失敗したとしても、コロンブスの他にさして失うものはなく、
逆に成功すれば、コロンブスに授与する報酬も得られる利益から十分にまかなえる。
こうして呼び戻されたコロンブスとカトリック両王とのあいだで「サンタ・フェの協約」が成立。
①コロンブスは発見された土地の終身提督となり、この地位は相続される。
②コロンブスは発見された土地の副王及び総督の任に就く。各地の統治者は3名の候補をコロンブスが推挙し、この中から選ばれる。
③提督領から得られたすべての純益のうち10%はコロンブスの取り分とする。
④提督領から得られた物品の交易において生じた紛争は、コロンブスが裁判権を持つ。
⑤コロンブスが今後行う航海において費用の8分の1をコロンブスが負担する場合、利益の8分の1をコロンブスの取り分とする。
コロンブスの長い嘆願に奔走した時期は、こうして終わりを告げたのである。「サンタ・フェの協約」の成立を受けて場面は航海の準備へと移る。
航海の準備地とも出発港ともなったのはアンダルシアの港町パロス。パロスはかつての命令違反の懲罰として船舶2隻の供出を命じられたが、ここが選ばれたのはそれだけが理由ではない。よそ者コロンブスが航海の準備を進めようとして頼りにできる港町といえば、ポルトガルからスペイン(カスティーリャ)に移った当初からサンタ・フェの協約が成立するまで、つねにコロンブスを支援したラ・ラビダ修道院があるこのパロス以外どこにもない。しかし、それ以上に大きかった理由は、パロスが外洋への航海に熟達した船乗りを集めるのにまさにうってつけの港町だったからである。
アルハンブラ宮殿 イベリア最後のイスラーム教国ナスル朝の王宮だった
フランシスコ・プラディーリャ・オルティス「1492年グラナダ陥落」上院議事堂 マドリード 右側にフェルナンド国王とイサベル女王。左側が降伏し鍵を手にしたボアブディル王
ピーノス橋でコロンブスに追いついたイサベル女王の使者
プエンテ・ピーノス橋 現在
「コロンブス像」サンタ・フェ
パロス
サン・ホルヘ教会
この教会で1492年5月23日、コロンブスに2隻の船と乗組員を提供するようパロスの町に命じたカトリック両王の命令書が読み上げられた
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