「世界を変えた男コロンブス」5 スペインへ

 コロンブスが計画を実行するには、金と支援が必要だった。1483年の暮れ、コロンブスはポルトガル王ジョアン2世(エンリケ航海王子の甥)に「西廻り航路で東方に行く」計画を申し出る。そして翌年、国王に謁見を許される。ジェノヴァの平民が王宮に迎え入れられたのは、妻フェリパの家柄が貴族階級であったこと、またジョアン2世が航路の開発と拡大に意欲的だったことが理由のようだ。王は委員会を設置し、航海計画について審議させたが、委員会は計画に反対(1485年)。コロンブスの計画が、間違った世界像にもとづいており(カナリア諸島から日本までは、空路で1万600海里だが、コロンブスは2400海里と見積もった)、実行不可能と判断したのだ。ポルトガル王室の決定を告知された頃、妻フェリパが幼い息子ディエゴを残して他界する。もはやコロンブスにはポルトガルに留まる理由はなかった。コロンブスは息子を連れてスペインに旅立つ。目指すはパロス。近くのウェルバに亡き妻の妹がスペイン人と結婚して住んでいた。パロスに上陸後、近くのラ・ラビダ修道院に寄る。ディエゴの養育を依頼するが、さらに大きな出会いがあった。セビリャのフランシスコ会準管区長マルチェーナ神父。学殖豊かで洗練された人物であり、航海学にも精通した天文学者。コロンブスはマルチェーナ神父と率直に話し合い、神父の称賛と励ましを得た(コロンブスの支援者に神父が多かったが、それは彼の計画が宗教的情熱に貫かれていたからだろう)。コロンブスの理論や航海計画に感激した神父から、コロンブスはその地方の領主でフェルディナンド王とイサベル女王の宮廷で最高位の貴族メディナ・シドニア公を紹介される。公はカトリック両王にコロンブスの航海計画支援の許可を願い出るが却下される。次にもう一人のアンダルシアの大貴族メディナ・セリ伯(のちに公爵)を紹介される。やはり王室に計画支援の許可を求めた。イサベル女王から「コロンブスを自分のもとによこすよう」に、との返事が届く。かくしてスペインに来て1年も経たないうちに、コロンブスは宮廷に召されることになった。

 1486年5月、コロンブスはコルドバのアルカサル宮殿で両王に謁見した。その頃スペイン両王の関心は、もっぱら、イベリア半島におけるムーア人(イスラーム教徒)の最後の拠点となったグラナダ王国の征服に向いていた。しかし、コロンブスが提案した事業に両王は興味を惹かれた。ポルトガルによるアフリカ沿岸の独占に対抗して海戦が起こり、講和条約が結ばれて終結したのは1479年のこと。それ以来、カスティーリャ人はアフリカ沿岸から締め出されていた。この計画はそこに思いがけない突破口を開くものであった。両王はコロンブスを召し抱え、かなりの額の、しかし、不規則な手当を支給した。そして、コロンブスの提案を審議する諮問委員会(委員長が女王の聴罪師でバリャドリード近郊のプラド修道院長タラベラ神父だったことから、通称「タラベラ委員会」)の招集を命ずる。委員会はコロンブスを試問し、5年かかって満場一致でコロンブスの提案を却下。

「きわめて薄弱なる根拠に基づく計画、かつまた、これらの問題について、いかにささやかにせよ、多少の知識を有する者には、実現不可能と思われる計画を、両陛下が支持せねばならぬいかなる理由も、私どもには見出せません」

 この間、コロンブスは偏見と闘い、屈辱的な無関心と戦い続けねばならなかった。1488年に初めには再びポルトガル王ジョアン2世に計画の売り込みをはかるが、12月にバルトロメウ・ディアスが、喜望峰を回り、アフリカ東海岸をかなり北上して戻ってきた。今やポルトガルは、インド洋に直接入る道を確保したのである。成功のあてのない大西洋西廻り航路などに、大金を注ぎ込む気がなくなったのは当然である。コロンブスは弟のバルトロメをイギリスのヘンリー7世やフランスのシャルル8世のもとへ派遣し売り込もうとしたがこれも失敗に終わった。コロンブスは再度イサベル女王に訴える。両王はタラベラ委員会の決定に反して、コロンブス案を受け入れた。何がそうさせたのか?

エマヌエル・ロイツェ「サラマンカの学者を前にしたコロンブス」ルーヴル美術館

ラ・ラビダ修道院

ラ・ラビダ修道院でマルチェーナ神父と話すコロンブス

ドラクロワ「ラ・ラビダ修道院のコロンブスと息子」ワシントン・ナショナル・ギャラリー

「コロンブス像」ウェルバ

「アルカサル」 コルドバ

「アルカサル」 コルドバ

アルカサル宮でカトリック両王に謁見するコロンブス

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