「世界を変えた男コロンブス」4 結婚
コロンブスがリスボンに来た1476年当時、地球は丸いのだから、西へ進路をとり続ければ、理論的には東方の国に到達し得ると学識ある者は認めていた。しかし、理論を実践に移す者はいなかった。理論的には可能だけれど、迷信、習慣、信仰など実行するにはまだまだ難問が多かった。「太陽の見知らぬ深みを探って、全能の神を試みてはならない」という考えが支配していた。試してみるべきだと主張する人々もいたけれど、誰も自分で実行しようとは思わなかった。そしてとうとう若きジェノヴァ人コロンブスが、航海計画を立て、支援者を募るようになる。
コロンブスがいつごろから、またどのような経緯で、その計画を抱き始めたのかはわからない。コロンブスは、大きな想像力に支えられた揺るぎない確信を持ち、自分の計画にすぐに同意してくれない人びとに苛立ちながら、反対する者を罵倒した。そんなコロンブスは、まわりの多くの人々の目には、まったくの愚か者に見えたり、少し頭がおかしいやつに映った。神を恐れぬものとみなされた。コロンブスの最大の課題は、計画実行のための金と人員と道具をそろえるために、「インディアス事業」と名付けたこの企てが、いかに意味のある実行可能なものであるかを、何も分かっていないお偉方に納得させることだった。
しかし当時のコロンブスはというと、しがない乗組員として航海したことがあるだけ、海図製作の見習いの経験があるだけ。これでは、とても相手を説得できるだけの海の知識が十分にあるとは言えなかった。そこでコロンブスは、1476年秋、ジェノヴァ商会所属の商船で、北方のイギリス諸島に向かう。イギリスの商業都市ブリストル、アイルランドのゴールウェーに立ち寄り、アイスランドにまで出かけた(コロンブスのアイスランドへの航海については疑問視する向きもある)。ゴールウェーで、漂流船の中で死んでいる男女を見つけた。背が高く見慣れぬ人種で、ラップランド人かインディアンだったと思われるそのふたりを、コロンブスは中国人(カタイ)だと考えた。
コロンブスの次の航海は裁判沙汰となったため、その記録が残されている。このとき、コロンブスは一介の船乗りではなかった。ジェノヴァ商人の代理として、6万ポンドの砂糖の買い付けにマデイラ諸島に向かうことになる。ところが、砂糖の代金は与えられなかったため、付けでは砂糖を売らないマデイラ島の商人から買うことができず、コロンブスは手ぶらでジェノヴァに戻る。そのため訴訟になり、1479年の夏に、コロンブスは宣誓証言をしている。おそらく彼が故郷に帰ったのはこれが最後だろう。
ジェノヴァからリスボンに戻ったコロンブスは、フェリパ・ペレストレロ・モニスと結婚する。この結婚を境にコロンブスは階段を昇り始める。フェリパは、ポルトガルの貴族の出で、マデイラ諸島のポルト・サント島の世襲総督バルトロメウ・ペレストレロの娘、エンリケ航海王子に仕えたジル・モニスの孫娘だった。コロンブスはリスボンで一目置かれる人間となる。しばらくリスボンで共に暮らしたフェリパの母親は、亡き夫の航海日誌や海図を見せてくれた。やがてコロンブスは妻と彼女の兄が総督になっていたポルト・サント島に移り住む。大西洋の風について研究を続け、貿易航海で入植がなされて間もないアゾレス諸島やカナリア諸島の島々へ出かけた。また、見たこともない立木を目にし、想像力をかき立てられた。
「太い茎が流れ着いたことがあり、その一節は葡萄酒瓶が9本入るくらいの太さがあった。そんな植物はこのあたりの土地のどこにも生えていないため、コロンブスはひょっとするとインドから風に流されてきたのかも知れないと考えた」(コロンブスの義兄ペドロ・コレア)
西へ進めばアジアに到達できるという命題が真実であるとの確信が深まる。1482年から84年の間のある時期に(おそらく2度)、ポルトガル王が黄金海岸に建てた交易城館がったサン・ジョルジョ・デ・ミナヘ航海している。この航海は、コロンブスにはかり知れない影響を与えた。熱帯でも人間が生きられることが立証され、コロンブスは人の住みうる世界が実に広大であることを確信した。
コロンブスのアイスランドへの航海の航路
コロンブスのアフリカ黄金海岸ミナへの航海の航路
「サン・ジョルジョ・ダ・ミナ」1572年 ポルトガル人が西アフリカ黄金海岸に建設した城塞および交易所
サン・ジョルジェ・ダ・ミナ城 現在
コロンブスの家 ポルト・サント
「コロンブス像」サンタ・カタリーナ公園 ポルト・サント
ホセ・マリア・オブレゴン「思索に耽るコロンブス」ポルト・サント
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