「世界を変えた男コロンブス」3 ジェノヴァ魂②ポルトガルへ
キオス島での滞在はほんの1,2週間という短いものだった。それがコロンブスにどのような影響を与えたかは想像するしかない。キオス島の対岸はアジア。コロンブスが初めて目にするアジア大陸。莫大な富が約束され、神秘に満ちた、輝かしいオリエントの世界。アジアの名を聞いて冒険心を起こさない人間など、どこにもいなかった。しかし、ヴェネツィアやジェノヴァが維持してきたアジアとの交易路は今やイスラーム勢力によって遮断されている。富み栄えるアジアへ到達できないとなれば、別の道を開拓するしかない。コロンブスの中にもその思いは芽生えたことだろう。しかし、まだコロンブスは地中海しか知らない。新航路開拓を具体的に構想するためには、大西洋を知る必要がある。そのチャンスが訪れる。
キオス島からサヴォナに戻ったコロンブスは、1476年5月、イギリス、フランドルへ向かう5隻のジェノヴァ商船隊(フランドル籍)に船乗りとして乗り込む。8月13日、ジブラルタル海峡を通過し、ヨーロッパ大陸の南西端サン・ヴィセンテ岬の沖合いにさしかかったとき、武装した13隻のフランス・ポルトガル連合艦隊に襲撃される。フランスはジェノヴァに何の恨みもなかったが、フランドルと戦争中だった。コロンブスの乗っていたベチャラ号も浸水し炎上。コロンブスは浮遊していた残骸から一本の櫂を見つけ、それにしがみついて海岸にたどり着いた。九死に一生を得た25歳のコロンブスは近くの漁師町ラゴスへ向かい、その後、この国の首都リスボンに入る。探検事業によって、一時期は世界一の海洋国家となるポルトガルの首都である。
当時のリスボンは、人口4万、ジェノヴァの約3分の1の大きさであった。しかし、偉業を成し遂げようとする活気が横溢し、みなぎる気力にあふれていた。リスボンに暮らすことは、探検の栄光と興奮に身を浸すことであり、海に思いを馳せる者にとっては、冒険航海はたまらない魅惑であった。この時点までにポルトガルが成し遂げていた成果はこうだ。アゾレス諸島の7つの島を発見し、アメリカへの航路の3分の1まで航行した。既に存在が確かめられていたマデイラ諸島、アフリカ大陸沖のヴェルデ岬諸島を植民地にしていた。アフリカ西海岸沿いに南下を進め、すでにギニア湾を渡っていた。
実はジェノヴァ人コロンブスは、リスボンと無縁だったわけではない。そこには弟のバルトロメがいたし、ジェノヴァ人の大きな居住地区もあった。そもそも、15世紀前半のポルトガルによる海外進出、大西洋の島々の領土化には、ジェノヴァ人の手が大きくはたらいていた。例えばマデイラ諸島。1452年までに植民が開始され、15世紀中にはヨーロッパへの砂糖の主要供給地になったが、この地に地中海からサトウキビの栽培をもたらしたのはジェノヴァ人だった。そして後に、この島からブラジルにサトウキビ栽培がもたらされることになる。また、カポ・ヴェルデ諸島も、1450年代半ばにジェノヴァ人らによって発見され、ここにもジェノヴァ資本が入って、砂糖の産地となった。
世界の探検航海活動の中心地に居を定めたコロンブスは、すでにリスボンのジェノヴァ人地区に住んで、海図の製作と販売をしていた弟のバルトロメと一緒に仕事をすることになる。この地図製作業を学ぶことによってコロンブスは、船乗りとしての運命に向けてさらに大胆な一歩を踏み出したのである。地図や海図を普及させる仕事は、アフリカ海域や大西洋の第一線の航海者たちの発見を、リスボン、ポルトガル、さらには世界の船乗りたちのために、実用的情報に翻訳する活動だった。コロンブスは実用的な地図製作を手がけることにより、当時の最も重要な仕事の最先端に身を置き、ひそかに最新の地理的情報の収集に努めた。彼は多くの国々から来た船乗りたちと交わり、さまざまな情報を聞き、熟考し、比較することができた。
しかし、海図製作だけではコロンブスを満足させることはできなかった。二次元の海図に示された航海と発見のロマンは、抗しがたいものになってゆく。1477年、コロンブスがポルトガルに身を落ち着けて後の初めての航海が始まる。
クリスティアーノ・ロナウド 出身はポルトガル領マデイラ島
マデイラ空港
2017年3月29日より同島出身のクリスティアーノ・ロナウドにちなんだ「クリスティアーノ・ロナウド・マデイラ国際空港」と改称された
西アフリカ地図
サン・ヴィセンテ岬
サン・ヴィセンテ岬 砂浜
1476年、コロンブスが泳ぎ着いたのもこのような砂浜だった
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