「大航海時代の日本」12 秀吉「バテレン追放令」①九州平定
オルガンティーノによれば、大坂城での会見時(1586年5月4日)、コエリュは秀吉に九州への出陣を要請し、出陣の際には九州のキリシタン大名をすべて秀吉側に立たせるよう尽力することを述べた。コエリュの本音は、島津氏(薩摩)に圧迫されつつあるキリシタン大名の有馬氏(肥前)と大友氏(豊後)への援助を求めることだったが、宣教師たちがキリシタン大名を動員する力を持っていることを秀吉に印象付けることになった。加えて、ポルトガルの大型帆船2隻を提供するという話は、イエズス会とポルトガルとの軍事的結びつきを秀吉に確信させた。
この会見の場では、もう一つ重要なことが話題になっている。ヴァリニャーノのイエズス会総長宛書簡(1590年)に、この経緯が報告されている。それはコエリュが、秀吉の明国出兵の際には、2隻のポルトガル船だけではなく、ポルトガル領インド副王に要請して援軍を送らせようと語った、ということである。ヴァリニャーノは、これがコエリュの決定的な誤りだったとみなした。こんなコエリュの発言を聞けば、秀吉が、ポルトガルの軍隊が日本にまでやって来ることが可能なのだ、と受け止めるのは当然のことだからだ。
1586年秋、秀吉は九州平定を開始し、翌年6月13日、島津義久を引見して、島津の降伏を受け入れた。
大村純忠・有馬晴信のキリシタン大名は島津氏に何度も脅かされていたので、イエズス会にとっては秀吉の九州攻めは願ってもないことであり、高山右近も献身的に働いた。ところが、九州平定に成功すると、秀吉はまるで右近の役割が終わったかのように、右近にキリスト教の棄教をせまり、それに抵抗した右近を追放してしまう。確かに、豊後を大友義統に安堵し、宗麟に日向を与え(宗麟は辞退)、有馬氏、大村氏の所領も安堵しているが、その一方で、征伐した島津氏の領国もほとんど変わりなく安堵している。秀吉は、したたかにもイエズス会に協力するように見せかけながら、実際は宣教師やキリシタン大名の勢力弱体化もねらって九州平定をしかけたのだと思う。
コエリュは1587年7月19日、九州平定を終えて博多に滞在中の秀吉と会う。秀吉に見せるため、わざわざ長崎からフスタ船を回航させて。フスタ船というのは、遠浅の港にも出入りができるように船底を浅くしているが、数門の大砲を装備した手漕ぎの帆船。艦内をくまなく視察した秀吉は、装備された大砲を発射させて、この船が軍船であることをしっかりと認識した。このフスタ船はイエズス会とポルトガル人が長崎で造らせたものだった。ポルトガル勢力は、日本で軍船を造る能力を有していたのである。秀吉の見せかけの好意的態度につられてコエリュは手の内をばらしてしまった。ヴァリニャーノが述べているように、このようなイエズス会日本準管区長コエリュの「軽率な振る舞い」がバテレン追放令発布の引き金になったようだ。
秀吉側近の高山右近と小西行長は、フスタ船をみた秀吉の反応を恐れて、コエリュにその船を秀吉に献上するように勧めたほどだったというから、ヴァリニャーノの指摘は当たっているだろう。いずれにせよ秀吉は、フスタ船を巡察した5日後の7月24日(和暦6月19日)、滞在先の博多で突如「バテレン追放令」を出した。重要な部分は以下の通り。
「二、これらの者(注:伴天連たち)は日本の諸国所領に来り、その宗派の信徒を作り、神や仏の寺院を破壊する・・・民衆が、架かる寺社の破壊など、騒擾をなすは、これ処罰に値する。
三、・・・予は伴天連が日本に留まってはならぬと定める。よって、今日より二十日以内に、彼らは身辺を処理し、自国に帰るべきである。もしこの期間中に彼らに対して危害を加える者があれば罰せられるであろう。
四、ポルトガル船が商取引に来るのは、それとは大いに異なることゆえ、なんらの妨げなく、それを許される。
五、今後、商人に限らず、インドから来るいかなる人々も、神と仏の教えを妨害せぬ限り、自由に日本に来ることができる。以上告知する。」
来日した教皇フランシスコ 2019年11月25日東京ドーム
第266代ローマ教皇フランシスコ 史上初のイエズス会出身のローマ教皇
狩野随川「豊臣秀吉」名古屋市秀吉清正記念館
秀吉のバテレン追放令 (吉利支丹伴天連追放令)
「ポルトガル船籍のフスタ船」 ヤン・ホイフェン・ヴァン・リンスホーテンの本より
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