「大航海時代の日本」13 秀吉「バテレン追放令」②「名優」秀吉

 「バテレン追放令」の「バテレン」とはポルトガル語の「パードレ」、つまり司祭(神父)のことだが、この追放令で対象にされたのは宣教師全般だったようだ。では、日本人のキリシタンはどう扱われたのか?バテレン追放令の前日に出された「天正十五年六月十八日付覚」には、一定以上の領地を持った武将たちがキリシタンになる場合には「公儀御意次第」(豊臣政権の許可が必要)だが、それ以下の下級武士や庶民は「心次第」(信仰は自由)とある。このことは、バテレン追放令後の1591年に、秀吉がイエズス会士の通訳ロドリゲスに、「日本では身分の低い者どもがキリシタンになるのは一向に差し支えない」と語っていることからもわかる。

 それでもイエズス会がこのバテレン追放令に猛反発したのは当然だろう。日本の布教責任者(準管区長)コエリュは、大量の火縄銃の買い入れを命じるとともに、有馬晴信や小西行長などのキリシタン大名に反秀吉連合の結成を呼び掛けた。しかしキリシタン大名らは皆拒否。コエリュは、フィリピンの総督や司教に対して援軍派遣を要請。しかしフィリピン側は応じない。それでもコエリュはあきらめず、1589年、使者をマカオに派遣してヴァリニャーノに兵士200人を伴って渡日するよう求め、スペイン国王やゴアのインド副王、フィリピン総督などにも援軍派遣を働きかけるように要請。もちろんヴァリニャーノは拒否する。

 では、この追放令で宣教師たちは国外に退去したかというと、そうではない。秀吉が20日以内に国外に退去せよと命じたにもかかわらず、彼らは日本に留まっていた。このとき日本には、司祭と修道士あわせて136人のイエズス会士がいた。司祭はすべてヨーロッパ人だが、修道士の87人のうち69人は日本人だった。彼らは国外退去のために平戸に集まったが、やがてキリシタン大名に引き取られて各地で活動を再開している。要するに、バテレン追放令の内容は強烈だったが、徹底した取り締まりを意図した法令ではなかった。それは、秀吉がポルトガルとの貿易継続を強く望んでおり、マカオ・長崎間貿易にイエズス会パードレの仲介が必要であることがわかっていたからだ。秀吉はイエズス会宣教師たちが肥前・天草地方に潜伏し続けているのを知らぬはずはないのに、秀吉は事態を放置した。バテレンをかくまうことはならぬと、有馬や大村を締め付けることもなかった。おかげで有馬領内には8の司祭館、大村領内には35の教会堂という隆盛ぶり。追放令後3年間に、この下(しも)地方(西肥前・天草)だけで3万人の入信者を数えたというのに、秀吉は見ざる聞かざるの態度を取り続けた。

 1580年に大村純忠に寄進されて以来イエズス会領だった長崎も、バテレン追放令によって秀吉に没収され直轄領とされたが、教会の破壊は行われなかった。それが、1592年、秀吉の命令で破壊された。その事情をフロイスはこう述べている。この年の8月、フィリピン総督の使者としてドミニコ会士ファン・コーボが来日し、朝鮮出兵の出陣基地である肥前名護屋で秀吉に謁見した。秀吉の服属要求に慌てたフィリピン総督が融和外交に持ち込もうとして使者を送ってきたのだ。コーボと彼を案内したスペイン人ファン・デ・ソリースは、ポルトガル人が他国民の日本渡航を妨げ、財産も没収していること、イエズス会士はキリシタン領主に庇護されて日本に留まっていると、細かく実情をあげて訴えた。それを聞いて秀吉は激怒し、長崎の修道院と教会の破壊を命じた、と言うのだ。

しかし秀吉の思惑はそれほど単純ではなかったように思う。秀吉は破壊された教会堂の材木を名護屋に運ばせているが、それは朝鮮出兵の拠点・名護屋で城郭や屋敷・倉庫の普請のために不足していた材木を補給するためだ。他にも、マカオ交易だけでなくマニラ交易にも大きな関心を示していた秀吉が、イエズス会・ポルトガル商人主導の長崎貿易の在り方を転換させようとしたとも考えられる。秀吉はとびきり優れた政治家、策略家だった。優れた政治家は一つの目的だけで突っ走るような真似はしないし、相手を騙す演技などお手のものの「名優」なのだ。初代ローマ皇帝アウグストゥスがそう呼ばれたように。

歌麿「太閤五妻洛東遊観之図」メトロポリタン美術館

馬に乗った豊臣秀吉

名護屋城博物館にある名護屋城のジオラマ

「岬の教会」イメージ模型 長崎

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