「大航海時代の日本」11 イエズス会士アレッサンドロ・ヴァリニャーノ②ガスパール・コエリュ
信長が本能寺の変で斃れたのは1582年6月21日、ヴァリニャーノと少年使節が長崎を発った4か月後のことだった。少年使節に同行せず、インド管区長としてゴアに残ったヴァリニャーノが、帰国する少年使節とともに再来日するのは1590年7月。この間、イエズス会の日本布教の責任者(日本準管区長。1572年、日本はインド管区から独立し、準管区に昇格した)を務めたのはガスパール・コエリュ(ポルトガル出身)。この任命がイエズス会がやがて日本から追放される最大の原因になったように思う。ヴァリニャーノは本当は、徹底した日本びいきで日本に適応した布教を重視していたオルガンティーノを準管区長にあてたかった。しかし彼の欠点を考慮して結局はコエリュを選んだ。オルガンティーノの欠点とは、規則を無視して自分の信念で突っ走ってしまう点や、修院の建設などに金銭を投じるので、会の財政を破綻させかねない点だった。さらにオルガンティーノが自分と同じイタリア人であることから、同国人びいきのそしりを受けることを恐れたのである。
山崎の戦いで明智光秀を打ち破った秀吉は、全国統一への主導権を握る。1583年9月、秀吉が石山本願寺跡に普請を開始した大坂城をオルガンティーノがロレンソ修道士を伴って訪れる。秀吉の歓待ぶりは周囲の者を驚かしたほどで、城下町に建てる教会の所有権をロレンソに与えた。秀吉のスタッフで早くに入信していたのは小西行長(1560年代。洗礼名アウグスティヌス)、高山右近(1564年。洗礼名ジュスト)だが、1584年~85年、秀吉麾下の武将の入信が続く。有名なのは、織田信長が大絶賛し、自分の娘(次女)まで嫁がせたという戦国きっての名将で利休七哲の一人蒲生氏郷(うじさと。洗礼名レオン)、その類いまれな知略と先見性で戦国の世を駆け抜けた知将黒田官兵衛孝高(よしたか。洗礼名シメオン)および息子の長政の入信。
1586年5月4日、イエズス会日本準管区長コエリュはオルガンティーノ、通訳のルイス・フロイスを伴って大坂城の秀吉を訪れる。秀吉は最大限の歓待ぶりを示し、雰囲気も和気藹々だった。秀吉は布教許可状も与えた。その内容は、フロイスの記録によるとこうだ。
「伴天連らが日本中、いずこの地にも居住することに関しては、予はこれを許可し、彼らの住院に兵士たちを宿泊させる義務、ならびに仏僧らの寺院に課せられるあらゆる義務から彼らは免除される特権を付与する。彼らがそのキリシタンの教えを説くにあたり、乱暴狼藉あるまじきこと。」
秀吉はこの会見において、朝鮮・中国を征服するつもりだと語り、二隻の大型ナウ(15世紀に地中海で開発された三本マストの大型帆船)と航海士の提供をコエリュに求めたとフロイスは記録している。しかしこの会見については、オルガンティーノの1589年3月10日付の書簡があって、それによると、ポルトガル船はコエリュの方から提供を申し出たのだという。フロイスは秀吉に、殿下がシナ征服のため下(しも。九州)に渡るのならば、ここにいる準管区長に助力を依頼なさるがよい、彼は下のほぼ全域を指揮下に置いているし、大型帆船をポルトガル人の操縦のもとに提供することができる、と語った。オルガンティーノと高山右近はフロイスの発言に危険を感じて、彼の言葉を遮ろうとしたが、フロイスは準管区長の権威をかさに着て、オルガンティーノの口を封じた。
秀吉はこの時直ちに不快感をあらわしたわけではない。このあと布教に関する特許状を与えたことでもそれは明らかだ。しかし、フロイスの発言は、イエズス会が九州の諸大名に対して、相当の支配力を持っているらしいと、秀吉に疑わせたことは間違いない。コエリュの大坂城訪問後、フロイスの筆によるイエズス会庇護者、秀吉のイメージは膨らむ一方だったが、彼らにはルネサンス人のリアリズムが欠如していた。
「人間ならば誰にでもすべてが見えるわけではない。多くの人は自分が見たいと欲することしか見ていない」(ユリウス・カエサル)
この会見の翌年、秀吉は突如「バテレン追放令」を発布する。
「大坂図屏風」大坂城と城下の賑わい
狩野光信「豊臣秀吉像」高台寺
「如水居士像」黒田孝高(黒田官兵衛、黒田如水)崇福寺
蒲生氏郷
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