「大航海時代の日本」10 イエズス会士アレッサンドロ・ヴァリニャーノ①天正遣欧少年使節

「大航海時代の日本」10 イエズス会士アレッサンドロ・ヴァリニャーノ①天正遣欧少年使節

 ヴァリニャーノは極めて政治的人間、ルネサンス人、マキャヴェリストだったと思う。イエズス会士に日本の風習を重視させようとしたり、日本人を同等に扱おうとしたからと言って、簡単に「善人」などと捉えては、彼を見誤ってしまう。彼が目的実現のためには手段を選ばないマキャヴェリストだったことは、彼が企画した「天正遣欧少年使節」からもわかる。

 そもそも少年使節派遣は、キリシタン大名大友、大村、有馬三侯の積極的な意思によるものではなく、あくまでヴァリニャーノ自身の卓抜だが抜け目ない壮大な企画。彼が少年使節の派遣を思いついたのは、離日前せいぜいふた月ばかりのことだったといわれる。その短時間で、三侯、特に離れた豊後にいる大友宗麟の承認を得る時間はなかった。少年使節は三侯の、教皇、イエズス会総長、イスパニア国王、ポルトガル国王らへの書簡を持参したが、それらはいずれも同筆で三侯の自筆ではなく、ヴァリニャーノのもとで作成されたことは明らか。とくに宗麟の花押は当時彼が用いていないものであった。

 ではそこまでして少年使節を派遣しようとしたヴァリニャーノの目的はどこにあったのか?ヴァリニャーノ自身はこう記している。

「少年たちがポルトガルとローマを旅行中に追求すべき目的はふたつある。そのひとつは世俗的・精神的にも、日本が必要とする救援の手段を獲得することであり、もうひとつは日本人に対し、キリスト教の栄光と偉大さ、この教を信仰する君主と諸侯の威厳、われらの諸王国ならびに諸都市の広大にして富裕なること、さらにわれらの宗教がその間で享受する名誉と権威を知らしめることである。このようにして日本人少年たちは、帰国の後、目撃証人として自らの見聞を語りうるだろう」

 第一点は、日本イエズス会が着々と築いてきた実績を、生きた少年の姿でヨーロッパに示すこと、それがもたらす感動の渦を日本イエズス会への資金援助につなげること。実際、ヨーロッパでの少年使節へのフィーバーぶりは熱烈で、使節がローマに着いた1585年中に、彼らに関する印刷物が48種も出されたという事実にも示されている。ローマ教皇シスト5世は、グレゴリオ13世が1583年に定めた日本イエズス会への年金4000ドゥカードに、2000ドゥカードを追加する決定を下した。ヴァリニャーノの目的は果たされたと言えるが、6000ドゥカートでは当時の日本イエズス会年間経費の半ばにしか達していなかった。

 当時の日本イエズス会の年間経費は1万クルザード(約1万ドゥカード)を超えていた。一方収入はポルトガル王支給の補助金が1000ドゥカード、インドに所有する土地からの収入1000ドゥカードにすぎず、しかも国王の補助金は名目ばかりで、ほとんど日本へは着かなかった。では、日本イエズス会はどうやって経費をまかなったのか?マカオ・日本間の生糸貿易への参入である。この生糸貿易により、日本イエズス会は年間6000ドゥカードの収入を得たと言われる。日本イエズス会の生糸貿易への関与は、会の本来の在り方を逸脱したものとして批判の声が絶えず、ヴァリニャーノはローマ出発時に、総長から貿易関与を禁止するように命じられていた。しかし彼はマカオ滞在中に実情を知るに及んで、日本イエズス会の貿易関与が咲くべからざる必要悪であることを悟るようになった。必要悪に頼りつつ現状を乗り切り、その過程で新しい態勢づくりを行う、少年使節派遣はそのための企画だった。

 ヴァリニャーノはゴアで、インド管区長に任ずる司令を受け取り、少年使節に同行できなくなる。そこで、付き添いとしてゴアの学院長をしていたヌーノ・ロドリゲスを指名し、56カ条にに渡る注意書きを与えた。彼の留意点は主に少年使節派遣の第二点に関わる。

「少年たちにはつねに案内者が伴うべきで、よいものだけを見せ、悪いものはまったく見せず、また学ばないようにせよ。・・・宮廷であれ、司教座であれ、そこに見受けられる無秩序について彼らに語ってはならぬ」

 ルネサンス期の宮廷や教皇庁にみなぎる淫風と乱脈は、イタリア人(ナポリ人)ヴァリニャーノのよく承知するところだった。マキャヴェリストは実にきめ細かな手をうつ。

「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ像」 口之津町港緑地公園 ヴァリニャーノが最初の日本の上陸地は口之津だった

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

口之津港 位置

口之津港

1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された、天正遣欧使節の肖像画   京都大学図書館

「天正遣欧少年使節顕彰の像」大村市森園公園

天正遣欧使節、教皇謁見の図 グレゴリウス13世の前にひれふす3人の少年使節

 中浦ジュリアンは病のために欠席

ラヴィニア・フォンターナ「グレゴリウス13世」個人蔵

 少年使節がローマ滞在中に死去。シクストゥス5世(シスト5世)が次期教皇。その戴冠式にも3人の少年使節が出席。

天正遣欧使節ヨーロッパ巡路

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