「大航海時代の日本」9 織田信長VSイエズス会(3)
キリシタン大名というと九州の大村純忠、大友宗麟、有馬晴信が有名だが、畿内の一般武士にも急速にキリシタンは増えていった。そのことを示す例が1566年の「クリスマス停戦」。勝手に名付けたが、これは、畿内の主導権をめぐって戦っていた松永久秀と三好三人衆(三好長逸【ながやす】、三好宗渭【そうい】、岩成友通【ともみち】)が、1566年のクリスマスの日にミサのために休戦したことを指す。松永久秀は、ルイス・フロイスから「悪魔」とまで呼ばれたキリスト教嫌いの人物で、1565年に将軍足利義輝を攻め滅ぼした際には、宣教師を京から追放している。そんな彼がミサのために休戦に応じたというのは、配下の指導的立場にある武士に、相当数のキリシタンがいたということだ。フロイスはこの時の様子をこう記している。
「降誕祭になった時、折から堺の町には互いに敵対する二つの軍勢がおり、その中には大勢のキリシタンの武士が見うけられた。ところでキリシタンたちは、自分たちがどれほど仲が良く互いに愛し合っているかを異教徒たちによりよく示そうとして、司祭館は非常に小さかったので、そこの町内の人々に、住民が会合所にあてていた大広間を賃借りしたいと申し出た。その部屋は、降誕祭にふさわしく飾られ、聖夜には一同がそこに参集した。ここで彼らは告白し、ミサに与かり、説教を聞き、準備ができていた人々は聖体を拝領し、正午には一同は礼装して戻ってきた。そのなかには70名の武士がおり、互いに敵対する軍勢からきていたにもかかわらず、あたかも同一の国主の家臣であるかのように互いに大いなる愛情と礼節をもって応接した。彼らは自分自分の家から多くの種々の料理を持参させて互いに招き合ったが、すべては整然としており、清潔であって、驚嘆に値した。その際給仕したのは、それらの武士の息子たちで、デウスのことについて良き会話を交えたり歌を歌ってその日の午後を通じて過ごした。祭壇の配置やそのすべての装飾を見ようとしてやって来たこの市の異教徒の群衆はおびただしく、彼らは中に侵入するため扉を壊さんばかりに思われた。」
イエズス会は、武士、特に大名への布教を重視して取り組んだようだ。大名が改宗すれば、領民を一気に改宗させられるし、領内の寺社を破却できるからだ。この時代、日本の布教拡大の最大の功労者はアレッサンドロ・ヴァリニャーノだろう。彼は1579年7月に来日。当時の日本のイエズス会の状況は、前年の大友宗麟の入信等、表向きの教勢伸長にもかかわらず、内実は甚だ憂慮すべきものがあった。問題は布教長カブラルの日本人観と、それにもとづく会内の日本人の扱い方。おなじ修道士でさえ、日本人は衣服から待遇まで差別され、ラテン語やポルトガル語の学習も許されず、会の実務を支える同宿(どうじゅく)も含めて、低級な国民と呼ばれる有様だった。ヴァリニャーノは、自分たちが異国で暮らす以上はその国の風習に適応せざるを得ぬと考えた。また、日本宣教は日本人の修道士や同宿の助けなしには不可能であり、宣教が根付くためには日本人自身の司祭の養成が不可欠で、イエズス会が日本人を積極的に入会させるのは当然の措置であると信じ、改革に取り組んだ。1582年2月20日、日本巡察の任を終えて日本を離れるが滞在中の彼の主な取り組みは以下の通りである。
1579年 大村純忠、ヴァリニャーノに長崎寄進を申し出る(1580年 長崎をイエズス会に寄進)
1580年 有馬晴信、ヴァリニャーノより受洗 有馬にセミナリヨ設立(日本初。~1611年)
信長に謁見し、学校建設の許可を受ける → 安土にセミナリヨ設立
1581年 豊後府内にコレジヨ設立
ちなみに、セミナリヨとコレジオは、どちらもイエズス会が日本でキリスト教の布教活動を行う神父(司祭)を育成するために開設した学校という点では同じ。違いは、10歳~18歳のキリシタンの男子が対象の中等教育機関セミナリオに対し、コレジオはセミナリオを卒業し、神父(司祭)になる素質のある者だけが入学を認められた高等教育、つまり大学のような場所だったこと。コレジオはポルトガル語で書くとcolégio、英語ではcollegeである。
1596年刊『教皇グレゴリオ13世伝』に記されている有馬セミナリヨと安土セミナリヨ
有馬セミナリヨ跡
安土セミナリヨ跡
松永久秀像
落合芳幾「太平記英勇伝十四 松永弾正久秀」1867年 乱世の「梟雄」(きょうゆう。残忍で勇猛であること)と呼ばれ、 悪役のイメージが強い 「平蜘蛛」(茶釜)を割る場面
『麒麟がくる』吉田鋼太郎演ずる松永久秀
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