「大航海時代の日本」6 大友宗麟
周囲を敵で囲まれてイエズス会と共に生きようとした純忠は、1579年、イエズス会巡察師ヴァリニャーノに長崎(1570年に開港)の寄進を申し入れる。きっかけは、純忠が龍造寺隆信と戦うために、宣教師から軍資金として銀百貫文を借り受け、その時の所領の一部をその担保としたことだったようだ。そして、1580年にイエズス会に寄進された長崎でも激しい文化破壊が起こる。大正12~14年に編纂された『長崎市史』はこう記している。
「長崎およびその付近においては神仏両道は厳禁せられ、住民は皆キリスト教、すなわち当時の切支丹宗門に転宗を強いられ、これに従わざるものは皆領外に退去を命ぜられ、神社仏閣のごときは布教上の障害として皆焼き払われた。かくして前に述べし如く神宮寺、神通寺、杵崎神社などは皆破却せられて烏有(「うゆう」何もないこと。)に帰し、神宮寺の支院たりし薬師堂、毘沙門堂、観音堂、萬福寺、鎮通寺、齊通寺、宗源寺、浄福寺、十善寺などもまた皆これと相前後して同一の運命に陥ったと伝えられる。かくして長崎およびその付近の仏寺は天正中(天正年間=1573~93年)に全滅し、これに代わりてキリスト教の寺院会堂、学校、病院などが漸次設立せらるることになり、キリスト教の布教は日にまし旺盛に赴き、正に旭日冲天(「ちゅうてん」=昇天)の勢を示した。」
純忠とともに天正遣欧少年使節を1582年(天正10年)に派遣した大友義鎮(宗麟)の場合についても見てみよう。1550年に豊後の国主となった義鎮(よししげ)は、その翌年にザビエルを引見しキリスト教の教義を聴き、領内での布教を許可。領内でキリスト教信仰は広がっていったが、義鎮自身はその後も長らく禅宗に帰依し、1562年に門司城の戦いで毛利元就に敗れた後には、出家して「宗麟」(そうりん)と号している。宣教師フランシスコ・カブラル(日本布教区の責任者であったが、日本人と日本文化に対して一貫して否定的・差別的であったため、巡察師ヴァリニャーノに徹底的に批判され、1581年に解任される)から洗礼を受けたのは、ザビエル引見から27年後の1578年、48歳の時である。なぜ、洗礼を受けるまでにこれほど長い年月がかかったのか?
それには、大村純忠の場合と同様、宗麟の治める豊後国の国情が関わっている。まず国内事情。そもそも宗麟の父・義鑑(よしあき)は、三男である塩市丸に家督を譲ろうと画策し、義鎮の廃嫡を企み義鎮派の粛清を計画していた。ところが、それを察知した義鎮派重臣が、1550年に謀叛を起こして塩市丸とその母を殺害。義鎮は、この政変によって家督を継いだのである。さらに周辺諸国との争いも関わっている。ポルトガルとの貿易によって得た利益を用いて室町幕府13代将軍足利義輝に接近した義鎮は、1559年には豊前国、筑前国の守護に任じられる。しかし、北九州に触手を伸ばし始めた毛利元就との戦いが始まる。1569年、元就を安芸に撤退させるも、翌年に肥前で龍造寺隆信に大敗。さらには1577年、薩摩の島津義久が日向国に進攻を開始した。宗麟が洗礼を受けたのはこの年である。
宗麟も大村純忠同様、寺社の破却を行っている。『大友記』(大友氏の興亡について、大友義鎮(宗麟)・大友義統の二代を中心に記されている。)にはこう記されている。まず宗麟が受洗前に行った萬壽寺の焼打ち(1570年)。
「宗麟公はキリシタンに帰依せられ、神仏は我宗の魔なり。然れば国中の大社、大寺、一宇も残らず破却せよとて、一番に住吉大明神の社を、山森紹應に仰せ、焼払わせて打ち崩す。次に萬壽山破壊の承りは、橋本正竹にして、彼の寺へ行向い、山門より火をかける。時しも辻風烈しく吹きかけて、回廊・本堂に燃えければ、仏僧・経論・聖経、忽ちに寂滅の煙と立ち昇る。・・・尚も宗麟より吉弘内蔵助に国中の神仏薪にせよと仰せつければ、山々在々に走り回りて、神仏尊容を薪にす。」
次に受洗後に行った彦山の攻撃(1577年)について。「彦山」は今では「英彦山(ひこさん)」と記されるが、中世以降は山伏の修験道上の行場となり、戦国時代の盛時には、山中の衆徒三千の坊舎があり、大名に匹敵する兵力を保持していた。
「彦山退治とて、清田鎮忠に三千の兵を相添え遣わさる。山中三千の山伏、身命を棄てて防ぐといえども、鎮忠上宮までせめのぼり、一宇も残らず灰煙になす。掛りたる処に山伏二名高声に叫ばわり、大友宗麟七代までの怨霊とならんと、罵言して、腹から切り、猛火の中に飛び入りける。」
「大友宗麟像」JR九州大分駅 中央口ロータリーにある
大友宗麟の墓(津久見市)
「大友宗麟像」大徳寺塔頭瑞峯院 (模写)
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
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