「大航海時代の日本」5 コスメ・デ・トルレス
ザビエルが日本において実際に布教活動を行ったのは、わずかに2年3カ月にすぎない。そして、ザビエルが去ったのち、日本宣教の大任を担ったのは、コスメ・デ・トルレス。トルレスのもとで日本イエズス会は豊後に地歩を築き、肥前で強力な基盤を獲得し、畿内に確固たる橋頭保を得た。彼こそ日本開教の祖というべき存在であった。日本キリシタン史上、トルレスほど衆人に大きな感化を与えた人物はいない。彼が人々に敬愛されたのは、その模範的な篤信もさることながら、何よりも愛に満ちた謙抑な人柄によってだった。日本人信徒はみな父のように彼を慕った。体も大きかったが、人柄はそれに劣らず大きかった。豊後の修院にあって、彼は寝静まった同宿(注:キリスト教関係の施設【修院 ・ 教会 ・ 学校など】で、宣教師たちと共に生活し、行動を共にし、協力していった人たち)の少年たちを見廻って蒲団をかけなおしてやり、台所で鍋釜や食器が放置してあると、井戸で水を汲んで来てそれを洗い、厩舎へ行って馬の世話をし、人より遅く寝て誰よりも早く起きるのだった。力仕事があるときは率先して働き二人分の仕事をした。久しぶりに教会を訪れる信者がいると、涙を浮かべて抱擁した。不機嫌な顔を示すことなど絶えてなく、謙遜と明るい笑みが常に面を飾っていた。こういった人柄は日本人の心服をかちえずにはおかなかった。
しかし、この穏和なトルレスでさえ、大村純忠に洗礼を施す条件として、将来領国内の寺社をことごとく破却することを誓わしめた。『完訳フロイス日本史』には、純忠が自分の思いをトルレス神父にこう伝えてくれと使いの者に述べ、その使いが神父に報告する場面が描かれている。
「大村殿は、尊師が彼に一つのことをお認めになれば、キリシタンになる御決心であられます。それはこういうことなのです。殿は自領ならびにそこの領主の主君ではあられますが、目上に有馬の屋形であられる兄、義貞様をいただいておられ、義貞様は異教徒であり、当下(しも 西肥前・天草地方)においてもっとも身分の高い殿のお一人であられます。それゆえ大村殿は、ただちに領内のすべての神社仏閣を焼却するわけにも仏僧たちの僧院を破却するわけにも参りません。ですが殿は尊師にこういうお約束をなされ、言質を与えておられます。すなわち自分は今後は決して彼ら仏僧らの面倒を見はしないと。そして殿が彼らを援助しなければ、彼らは自滅するでありましょう。」
純忠の兄・有馬義貞は1576年に洗礼を受けてキリシタンになっているが、それは純忠が受洗を決意した13年後のこと。そのため純忠は、トルレス神父に対して、自分には熱心な仏教徒の兄がいるので、神社仏閣のすべてを焼き払うことはできないが、代わりに、今後一切寺社を援助しないことを約し、援助を止めることで、寺も神社もいずれ廃れていくことになると説明したのだ。この言葉を受けてトルレスはこう答えたという。
「時至れば、ご自分のなし得ることすべてを行なうとのお約束とご意向を承った上は、もうすでに信仰のことがよくお判りならば洗礼をお授け申しましょう」
純忠は受洗(1563年)後、軍神として尊崇されていた摩利支天像を焼き、さらに養父大村純前(すみさき)の位牌をも焼き棄てた。しかし、1570年頃出家入道し理専と号していた。三城の城内には千日観音を祀っていたし、伊勢神宮の御師(おし)からお札も受けている。彼の中で、キリシタンとして救済を得ることと、神仏に祈ってご利益を蒙ることはまったく矛盾していなかったのだ。しかし、1572年に来日し下の上長に指名されたガスパル・コエリュは、純忠の出家に深い危機感をいだく。彼は1574年11月、純忠と会見し、領内から一切の偶像崇拝を根絶し、ひとりの異教徒もいなくなるよう全力を傾注すべきだと強硬に申し入れる。周囲を敵で囲まれてイエズス会と共に生きるほかない純忠はコエリュの勧告を受け入れた。そして神社仏閣に対するすさまじい迫害が始まる。多くの寺院が破壊され放火された。仏僧だけでなく純忠の家臣も領民も改宗を強制され、拒んだ者は領外へ追放された。かくして大村領は、領内に一人の仏教徒なく、ひとつの寺院もない日本最初のキリシタン王国となった。
『南蛮屏風』(右隻)神戸市立博物館
異国からの航海を経て日本の港へ到着した南蛮船、貿易品の荷揚げ、上陸したカピタン一行、彼らを出迎えるイエズス会宣教師やフランシスコ会修道士、日本人信者たち
『南蛮屏風』(左隻)
神戸市立博物館 帆を広げ、異国の港を出港する南蛮船と見送りの人々
「大村純忠の受洗」大村市歴史資料館
カルディム『日本殉教精華』に描かれた大村純忠
大村純忠のキリシタン王国 1574年に焼却・破壊された寺社の数
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