「大航海時代の日本」7 織田信長VSイエズス会(1)

 『日本史』の著者として、現代日本人にもよく知られたイエズス会(ポルトガル人)宣教師ルイス・フロイス。彼は1563年に来日し、1597年に長崎で没するまで34年間、一度も日本を離れることなく、生涯を日本での布教に尽くした。イエズス会総会長から日本におけるイエズス会の活動を記録するよう指示されたため、詳細な日本記録を残すことになった。

 将軍足利義輝は1560年、宣教師に対して京都滞在を許可し、事実上キリスト教の布教を容認。フロイスは、1565年に義輝への伺候を許されるが、同年、義輝は三好義継(よしつぐ)と松永久秀の謀叛により殺害されてしまう。すると僧侶などの反キリスト教勢力のはたらきかけをうけた朝廷は、京都からの「宣教師追放令」を出す。そのためフロイスは堺に身を潜めて京都復帰の機会をうかがうことになる。そこに登場したのが織田信長である。

 1568年、信長が足利義昭を報じて上洛すると、宣教師をめぐる状況は一変。フロイスが信長に初めて会うのは、その翌年である。信長と将軍義昭はフロイスらの京都在住を認めたが、仏僧日乗(にちじょう。日蓮宗の僧。一貫して宣教師と敵対したため、フロイスは「日本のアンチキリスト」「肉体に宿りたるルシフェル」などと評した)のはたらきかけをうけた正親町(おおぎまち)天皇は、バテレン追放の綸旨(りんじ。天皇の命令書)を出す。間違えてはいけないのは、朝廷復興も看板にしていた信長にとってこの怪僧日乗は便利な人物だったということ。日乗は信長に対して、バテレンのいるところはすべて戦乱の巷となるので追放すべきだと説いた。しかし信長は「貴様の小胆なることよ。予はすでに彼に都をはじめとして諸国に居住することを許した」と言って、日乗の進言に取り合わなかったが、彼を見放したわけではない。逆に宣教師に対しても、理解は示したが、距離は保ち続けた。

 フロイスはこの年の6月、信長に保護を訴えるために岐阜を訪れる。このとき信長は、京からやってきた公卿衆のまえでこう言ったと言われる。

「一切は予の力のもとにあるが故、内裏も公方も意に介するに及ばず、汝は予の言うことのみを行い、汝の欲する所にいるがよい」

 そして信長は、城を見せたいからとて出発を二日延ばすようにフロイスに求める。家臣や公卿たちは何故信長がこのような好意を宣教師に示すのか、首をひねったという。フロイスが進物を持って稲葉山城を訪れると、信長は早速進物のひとつシロウラ(ズボン下)を身につけ、第二子の信雄(のぶかつ。このとき11歳)に茶を接待させた。信長はフロイスに「元素や日月星辰のこと、寒い土地と暑い土地の性質、国の習俗」について尋ね、会話は3時間に及んだ。信長が宣教師を厚遇した理由は、宣教師が彼の前に開けつつあった国際社会の窓口であったからだ。宣教師のもたらす情報によって、ポルトガルからアフリカ・インドを経、日本に達する長い海の道のイメージが信長の脳中で形づくられていく。

 フロイスも当初信長について次のような肯定的評価を下している。

「彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜(せんぼく)や迷信的習慣の軽蔑者であった。」

 もちろん、信長が西欧の人や文物に関心を寄せたのは、たんなる個人的な興味・関心からではない。自ら推し進めていた天下統一事業に役に立つからだ。まずは、布教とセットでもたらされる軍事支援。例えば、信長が天下統一に向け 大きく飛躍した、「長篠の戦い」(1575年)。以前は、信長の鉄砲と 武田の騎馬の戦いだといわれてきたが、鉄砲対鉄砲の戦いでもあった。両者の勝敗を分けたのは鉄砲玉。信長は大量のヨーロッパ製の鉄砲だけでなく大量の外国産の弾丸をポルトガル船から調達していたのだ。小説や映画で描かれる「三段撃ち」については、近年信憑性が薄いと指摘されているが、鉄砲の組織的な大量使用が勝敗を分けたことは間違いない。

「長篠合戦図屏風」部分 徳川美術館

「長篠合戦図屏風」 徳川美術館

狩野元秀「織田信長」長興寺

「ルイス・フロイス像」横瀬浦公園 西海市

ルイス・フロイス『完訳フロイス日本史』中公文庫

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