「大航海時代の日本」4 イエズス会士
当初、アジアの富をヨーロッパにもたらすことを目的としてアジアをめざしたポルトガルは、やがてアジア内の貿易に仲介者として参入することに活路を求めるようになる。その仲介貿易のメインが日本貿易だった。ポルトガルは中国の絹を日本にもたらす際に仕入れ値の4,5倍で売り、さらに日本銀を中国に持ち帰れば両国の金銀比価の差によって暴利をむさぼることができた。しかし、日本貿易は日本布教と不可分の関係にあった。なぜなら、ポルトガル国王はローマ教皇庁から、西経46度37分以東の新発見地(日本の領土の大部分も含まれる)の領有を認められるとともに、新領土の住民のキリスト教化を義務づけられていたからである。日本貿易の開始は当然日本布教の開幕であらねばならなかった。
インドに最初の宣教師が到着したのは1500年。イエズス会ではなくフランシスコ会・ドミニコ会の宣教師だった。イエズス会の設立が認可されるのはこの先の1540年のこと。そしてザビエルが敬虔王と呼ばれたジョアン3世(ルターによって本格的に開始された宗教改革に対する対抗宗教改革運動に加担し、1536年異端審問所を設けた)によって1542年にゴアに到着した後、ポルトガル植民地の宗教的指導権はイエズス会の手に移る。
イエズス会は、従来の修道会とはいちじるしく相貌を異にしていた。合唱祈祷や苦行に日課のほとんどを費やすことを避けて、黙想や研学(学問の研究)、さらには伝道活動を重視した、まったく新しいスタイルの戦闘的修道会。めざしたのは、宗教改革に対抗してカトリック教会の生命を更新することとスペイン・ポルトガルの海外領土獲得に伴ってヨーロッパ人の視野に登場した数々の異民族をキリスト教徒として獲得すること。特に重要だったのは後者。会の創設者イグナチオ・ロヨラは次のように考えた。人間の存在意義は、神意を見出しそれを実現することにある。そして神意とは、地上のあらゆる霊魂のうちに、あらゆる民族のうちに、神の国を建設しようとすること。それには従者、戦士、英雄が必要なのだ。かくしてイエズス会会憲は「諸所へ経めぐり、神に対するすぐれた奉仕と霊魂救助の存する世界のどこにも居住することを我等の天職とす」と謳うことになった。
未開の地、異教の地での布教活動には大きな危険が伴う。どのようにイエズス会士の養成はなされたのか?特徴は「霊操」。入会者はまずこの「霊操」が課される。「霊操」とは身体の鍛錬が体操であるように、霊魂の鍛錬法を意味する。それはキリストの姿にならって自己を全面的に変革する方法。第1週は罪の認知と痛悔、第2週はキリストの救済活動の観想、第3週はキリストの受難の観想、第4週はキリストの復活の観想を行う。観想とは場所・情景も含めて出来事をまるで眼前にあるように心のうちに復元することであり、高度の精神集中を強いられる。これを通じてイエズス会士たらんとするものは、自己を神意実現の手段として徹底的に作り変えられるのである。そして「霊操」は入会時だけでなく、その後期間を置いて何度も繰り返される。イエズス会士は、このような訓練を経て、会の目的を一切に優先させる態度を身につけたのである。
インドに到着以来、イエズス会士ザビエルも住民の教化のために多忙な日々を送る。名ばかりの信者たちに、教理を教え、名実ともにクリスチャンにすべく奮闘する。南インドで3年、マラッカやマルク諸島(モルッカ諸島=香料諸島)などの東南アジアで3年の布教活動を行ったが、思うような成果をあげることができず、ある種の閉塞状況に陥っていた。そんな失意の中でザビエルが出会ったのが日本人アンジロウ。彼はすぐさまこの30代の薩摩士族の旺盛な知識欲と怜悧さに魅せられる。日本人がアンジロウのように知識欲に満ちた民族なら、日本こそ神の約束された土地にちがいない。「日本人はインドの異教徒に見られないほど旺盛な知識欲があるので、インドのどの地域よりも、ずっと成果が挙がるだろうとのことです」と彼はイエズス会に告げる。
鹿児島ザビエル公園 「ザビエル記念碑」中央はフランシスコ・ ザビエル、左が弥次郎(アンジロウ)、右がベルナルド(ヨーロッパの土を初めて踏んだ日本人)
ルーベンス「イグナティウス・デ・ロヨラ」ノートン・サイモン美術館
セバスティアーノ・リッチ「イグナティウス・デ・ロヨラと聖家族」
「フランシスコ・ザビエル」神戸市立博物館
クリストヴァォンロペス「ジョアン3世」サン・ロッケ教会 リスボン
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