「大航海時代の日本」3 平戸
1543年、ポルトガル人をのせたジャンク船が漂着したのは種子島。1548年、ザビエルがヤジロウ(薩摩国あるいは大隅国出身とされる)の案内で上陸したのは薩摩半島の坊津。しかし1550年、ポルトガル船が最初に入港したのは平戸であり、長崎に移るまで平戸がポルトガルとの交易の拠点となる。なぜか?
1543年、種子島に漂着したジャンク船の持ち主は倭寇の首魁である明人の王直(おうちょく)だった。彼は密貿易を仲介して財を成し、ジャンク船の船主として東シナ海に勢力をふるっていた。王直の根拠地の一つは薩摩坊津で、島津氏は密貿易で大いに潤っていた。薩摩ばかりに巨利を得させてなるものかと、松浦氏25代当主松浦隆信は配下を王直へ送って接触させ、ついに王直の本拠を平戸に誘致するのに成功。その歓迎ぶりは、自らの居城を王直に与え、自らは、のちのオランダ商館近くの高地に新たな城を築いて移り住んだほど。王直の屋敷は、道可の隠居名の印山道可にちなんで「印山寺屋敷」と称されたが、現在は、その跡地には金光教平戸教会が建っていて、当時の面影はない。
新来のポルトガル人が、王直と違ったのはキリスト教布教が貿易と一体だったこと。例えば、鉄砲を売っても、火薬の製法は教えず、製法を知りたい隆信にこう言ったとされる。
「この火薬御所望ならば、わが宗旨に成り給ふべし。さなくば教え難し。」(松浦家『壺陽録』)
キリシタン嫌いの隆信という男、どうしたか?重臣の籠手田(こてだ)左衛門安経に因果をふくめ信者にさせたのだ。ところが籠手田左衛門は熱心な信者(安経【やすつね】アントニオ)となり、彼が領主だった生月(いきつき)、度島(たくしま)などがザビエルが去った(1550年)後のキリシタン信仰の中心となった。彼は、弟の一部勘解由(いちぶかげゆ)とともに、平戸の教会のために尽くしたが、その子孫たちは1599年迫害に遭い、一族家臣を引き連れて長崎に亡命することになるが。
ポルトガル船の来航は平戸を活気づかせ、隆信は貿易船が永続的に平戸に来ることを願望し、インドから日本視察に向かっていたイエズス会インド管区副官区長メルシオール・ヌーネス・バレットへの書簡の中で、自分も幾度かキリスト教の教理を聴聞して好感を抱き信者になる意向であり、尊師の来訪を大いに喜ぶであろう、とまで表明している。もちろん、本心とは思えず、あくまで貿易船の来航につながることを期待しての表明だったろう。それでも、隆信はザビエルとの約束で1552年に来日したバルタザール・ガーゴに、キリシタンの埋葬用の土地を与え、ガーゴはそこに十字架一基を建てた。ガーゴとは籠手田左衛門とその妻子、弟一部勘解由、隆信の弟信実(のぶざね)に洗礼を授けたイエズス会司祭。隆信が保護した彼の布教によって、1555年には平戸のキリシタンは500人に達した。しかし、キリシタンの増加は寺院や仏僧らとの関係を難しくする。それに拍車をかけたのは、キリシタンによる寺社や仏像などの破壊行動だった。1558年、ポルトガル宣教師ガスパル・ヴィレラの活躍で平戸のキリシタンは1500人に急増。三つの元寺院が教会に改修される。
では、ポルトガルにとって日本との交易はどのような意味があったのか?1557年、ポルトガルはマカオに定住地を獲得。中国官憲から、定住して交易を行うのを黙認される。その目的は日本貿易の拠点とすることにあった。アルブルケの経営から半世紀を経て、アジアのポルトガル海上帝国は様々な問題を抱えて頽勢へ向かおうとしていた。このときにあたって開かれた日本貿易は、ポルトガルのアジア経営にとってカンフル剤だった。それは胡椒貿易よりはるかに大きな利潤をもたらした。このような「日本貿易」とは何か?日本の銀と中国との絹の交換である。日本は1530年代から世界有数の大銀産国となりつつあった。1533年、石見銀山で海外渡来の銀精錬技術である灰吹法により効率的に銀を得られるようになる。そしてこの技術が全国の鉱山に伝えられ、日本における銀産出に大きな貢献をする。最盛期には、なんと、日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されているのだ。そしてこの日本産銀が世界史を大きく動かしてゆく。
1550年のポルトガル船来航450周年記念碑 平戸
「松浦氏25代当主松浦隆信」松浦史料博物館
石見銀山 地図
石見銀山
0コメント