「大航海時代と日本」1 デマルカシオン体制
コロンブスがスペイン国王の支援を受けてバハマ諸島に到達したのは1492年。スペイン国王(イサベルとフェルナンド)は、ポルトガルが「コロンブスの航海はポルトガルの支配領域を侵している」と主張していたため、その土地への排他的権利を確保する必要があった。また、今後発見されるであろう新たな土地についても、両国間の対立が想定されたので、ローマ教皇の調停を求めた。この時の教皇はスペイン出身のアレクサンデル6世(在位:1492年―1503年)。教皇は、1493年、北アフリカの西の沖合で大西洋の中央あたりを通過する子午線(経線)を境界に、それより西側の土地はすべてスペイン領にするという教皇勅書を出す(教皇子午線)。当然、ポルトガル国王ジョアン2世は強い不満を抱く。しかし、スペイン出身のアレクサンデル6世の裁定に期待できなかったので、直接、両国が再交渉することを望み、一部武力の行使さえにおわせながら、強硬な態度に出て、教皇子午線で示された境界線をさらに西側に移動させることで合意した(西経46度37分)。それにもとづいて締結されたのがトルデシリャス条約である。
これによって、ポルトガルはアフリカ・アジア地域でスペインの影響力を排除できたし、スペイン側は現在のブラジルを除くアメリカ大陸の全域に進出することが可能になった。このようにトルデシリャス条約は、世界を二分割し、スペインとポルトガルの勢力が及んだ地域を自国領土とすることを確認した独善的な条約であった。これは「デマルカシオン体制」(世界領土分割体制)とも呼ばれる。これに不満を抱いたフランス国王フランソワ1世が次の言葉は吐いたとされるのももっともだ。アステカ王国を滅ぼし、その財宝を積んだスペイン船を襲撃して略奪したフランスの海賊ジャン・フロランはその一部をフランス王フランソワ1世に献上した。はじめて目にするインディアスの富に驚嘆したフランソワ1世が、カルロス1世に伝えたとされるセリフだ。
「なにゆえに、貴侯とポルトガル王閣下のあいだで世界が分割され(トルデシリャス条約を指す)、フランス王にはなんの関わりもないというのであろうか。われらが父アダムの遺書のなかにかの地の相続者とも領主ともなるものは貴侯らに限るとの定めがあり、それゆえに貴侯らで世界を二分し、余に一片の土地も与えぬというのなら、その遺書とやらを見せてほしい。それができぬなら、余が海上で何を奪い、何を手に入れようと、とやかく言われる筋合いはない。」
トルデシリャス条約締結の後、ポルトガルは喜望峰経由の東廻り航路を開発する。1498年には、ヴァスコ・ダ・ガマがカリカットに到達して、インド航路が開かれ、1510年にはゴアを占領してインド、東南アジア進出の拠点とし香辛料貿易を展開した。他方、スペインは、カルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝カール5世)の命によって1519年に西回りでモルッカ諸島に到達するルートの開拓に向かったマゼラン(彼自身はポルトガル人)が、1520年に南米大陸南端のマゼラン海峡を発見し、さらにヨーロッパ人で初めて太平洋を横断し、1521年にフィリピンに到達(マゼランは島民に殺害されたが、その船団は航行を続け、1522年にスペインに帰り、人類初の世界周航に成功した)。こうして、ポルトガルとスペインは、地球の裏側にあたる東南アジアで再び出会うことになった。そして、香辛料の産地であるモルッカ諸島で、両勢力はしばしば衝突し、占有権を主張し合うことになる。そこでスペイン国王とポルトガル国王の調整により、スペインはポルトガルから賠償金を得てモルッカ諸島から撤退し、同諸島の東の子午線(東経144度30分)を境界とする条約を1529年に結ぶことになる。これがサラゴサ条約である。こうして地球の表面全体は、サラゴサ条約と先のトルデシリャス条約によってポルトガル、スペイン両国が二分することになった。
ただし、例外も設けられた。スペインが占拠していたフィリピンはこの子午線の西側になるが、スペインが先取権を主張してスペインの支配下に入った。つまり、スペインはモルッカ諸島から手を引くが、フィリピンは確保するという交換条件。子午線を境にしたと言っても、先取と占領の現実に対応した内容となったのである。これにより、ポルトガルはマラッカとマカオを拠点にアジア交易を展開し、スペインはマニラを拠点に活動を展開していくことになる。
「コロンブス像」バルセロナ
プエブラ「コロンブスのサン・サルバドール島上陸」プラド美術館
カール・フォン・ピロティ「コロンブス」ノイエ・ピナコテーク ミュンヘン
アルカサル宮でカトリック両王に謁見するコロンブス
ドラクロア「コロンブスの帰還」トレド美術館
クリストファノ・デル・アルティッシモ「教皇アレクサンデル6世」ヴァザーリの回廊 フィレンツェ
ポルトガル国王ジョアン2世
デマルカシオン(世界領土分割)体制
アルフレッド・ロケ・ガメイロ「カリカットに到着したヴァスコ・ダ・ガマ」ポルトガル国立図書館
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