「中世フランスのこころ」16 ジャンヌ・ダルク⑧火刑
裁判は長びいた。審理は思うように進まず、コーションや陪席判事たちは失望を重ねる。ジャンヌは彼らの質問に、いつも臨機応変に対処したため、教会に対する不服従の片鱗さえあきらかにすることはできなかった。そこで、コーションがジャンヌの教会に対する不服従のしるしとして、争点の中心に据えたのは「男装」の問題。確かにカトリックの教義では、女性が男装することは罪とされていた。しかし、ジャンヌが着ていた男物の服は、彼女がシノンにいるシャルルに会いに行くとき、ヴォークルールの住民たちが彼女が馬に乗れるように贈ったものであり、ポワティエの審問でも問題にされなかった。結局、ジャンヌはだまされて「改悛」(改悛の誓約書に署名)し、一度脱いだ男物の服を「牢内のイギリス兵による暴力からわが身を守る」ために再び身につける。こうしてジャンヌは、異端再犯者とされ火刑が決定した。
ところで、異端者が火刑に処せられるというのはどういう意味を持っていたのか?日本とは異なって、ヨーロッパのキリスト教社会では火葬というものは今に至るまで極端に嫌われている。フランスで火葬が許可されたのは、1886年だが(イタリアで1873年、ドイツで1876年)、2か月後にローマ法王庁はこれを糾弾して、火葬の許可はフリーメーソンの陰謀だと言った。法王庁は、火葬する者は破門すると言い渡し、この状態が1963年まで続く。その後、事実上選択は自由になったが、1983年の教会法でも「火葬は禁じないが土葬を勧める」としている。
このように今でも火葬への偏見が大きいのは、火葬が異端者の火刑を連想させ、魂の復活を不可能にしてしまうと考えられてきたからだ。人間は肉体と魂のペアで創造されるが、肉体が滅びると魂を解放してやらなくてはいけない。魂は煉獄へ行って贖罪をしたり、天の待合所に行って、最後の審判の日を待つ。そして最後の審判によって、肉体を返してもらって復活するのだ。それが、火葬されると、魂も閉じ込められたまま燃やされる、つまり魂までなくしてしまうことになる。これは煉獄よりも地獄よりも恐ろしい虚無。神と神の作った世界から消えてしまうことになるからだ。
ジャンヌは、1431年5月29日に火刑判決が下され、翌日火刑に処せられた。火刑に立ち会った廷吏のジャン・マシューはこの時のジャンヌの様子をこう記している。
「彼女は、ヴィユ・マルシェ広場につれていかれた。彼女の隣には、マルタン修道士と私がいて、斧と剣を持った800人以上の兵士に守られていた。彼女は説教の後、・・・このうえない改悛と祈りの情熱を見せ、聖なる三位一体と、神聖で輝かしい聖母マリアと天国のあらゆる祝福された聖人たちに対して、敬意に満ちた信心深い嘆きを示し、祈願を求めた。その様子を見て、列席した判事たちは、イギリス人の多くでさえ、大きな悲しみを感じ、涙を流した。
あまりに敬虔だった彼女は、十字架をほしがった。その言葉を聞いて、その場に居合わせたイギリス人が木の棒で小さな十字架を作り、彼女に差し出した。彼女はうやうやしくそれを受け取って口づけし、彼女の肌と衣服の間に入れた。さらに彼女は私に、死ぬ直前まで見ていたいので、教会の十字架をもってきてくれるよう控えめに頼んだ。サン・ソヴール小教区の聖職者が、十字架を持ってきた。彼女は息絶えながら、大声で『イエスさま!』と最後の言葉を叫んだ」
それから18年後の1449年11月10日、フランス北西部のノルマンディー地方を奪回した国王シャルル7世がルーアンに入城。ジャンヌ処刑裁判の真相と、裁判過程の詳細を知るため調査を命じる。そしてジャンヌの復権裁判への道が開かれ、1456年1月28日、ジャンヌの少女時代を知る人々への尋問が開始。あらゆる階層にわたる延べ110余名の証言が検討され審理された結果、7月7日ルーアン大司教館で異端判決は破棄。フランスの主要都市にジャンヌの名誉回復が公示された。そして、その後フランスは、国家的な危機に直面した時、ジャンヌの激しくも美しかった生涯を何度も思い出し、いつか神の助けがあることを信じ続けたのである。
イシドール・パルトワ「火刑台に導かれたジャンヌ」ルーアン美術館
アリ・シェフェール「処刑場に引き立てられるジャンヌ」オルレアン美術館
リオネル・ロワイエ「火刑台のジャンヌ」ボア・シュニュ大聖堂 ドンレミ
ジュール・ルネプヴ「火刑に処せられるジャンヌ」パンテオン パリ
ヘルマン・スティルケ「火刑台のジャンヌ・ダルク」エルミタージュ美術館
セーヌ河に投げ捨てられるジャンヌ・ダルクの遺灰
0コメント