「中世フランスのこころ」15 ジャンヌ・ダルク⑦異端裁判
戴冠式を見届けたジャンヌの次の目標は首都パリの奪回。しかし、国王はブルゴーニュ公と手を結ぶことばかり考えている。ジャンヌは国王に無断でパリ攻撃に出発。1429年9月8日、サン・トノレ門(現在のパレ・ロワイヤル辺り。記念のレリーフがある。ピラミッド広場の「黄金色のジャンヌ騎馬像」もこの記念)を攻撃するが負傷。翌日、国王は撤退を命令。ジャンヌの抗議にも国王は耳を貸さない。1430年4月、ブルゴーニュ公は国王の期待を裏切って王国領に侵略開始。包囲されたコンピエーニュに救援に駆けつけたジャンヌは、味方から裏切られ5月23日捕虜となってしまう。国王シャルルがジャンヌ救出を試みた形跡はない。12月、幾度も苦杯をなめさせられたジャンヌへの復讐に燃えるイギリスは1万リーブルの身代金を支払って、ジャンヌの身柄をブルゴーニュ公から受け取る。12月23日にルーアンに移送され、イギリスより裁判権を任されたボーヴェー司教ピエール・コーションによって、報復的意味合いを隠すため異端者裁判にかけられた。
ジャンヌが捕まった15世紀前半、魔女裁判はまだ非常に珍しかった。それが本格的に行われるようになるのは、16世紀になってからのことである。だが、イギリス側にしてみれば、ジャンヌをどうしても裁判にかける必要があった。ジャンヌを異端者として処刑すれば、彼女の力によって戴冠したシャルル7世の権威に傷をつけることができるからである。イギリス側は、1420年に結ばれたトロワ協定により、自国の王ヘンリー6世こそが「フランスとイギリス両国の王」であると主張しており、シャルル7世がフランス国王であるとは認めていなかった。
異端裁判は、いくつかの段階に分けて行われる。このときの経過もこうだ。
①「予備審理」 1431年1月9日~3月26日 調査や尋問が中心
②「普通審理」 ~5月24日
③「異端再犯審理」 5月28日、29日 異端再犯者と判決
→ 5月30日 火刑
裁判の記録からはジャンヌの人柄が浮かびあがってくる、そこに記されたジャンヌの明快な答えは、彼女を陥れるために用意された非難や矛盾を全く無意味なものにしている。
①「おまえは神の恩寵を受けているのか?」
「もし私が恩寵を受けていないならば、神がそれをあたえてくださいますように。もし私が恩寵を受けているならば、神がいつまでも私をそのままの状態にしてくださいますように。なぜなら、もし神の恩寵を受けていないとわかったなら、私はこの世でもっともあわれな人間でしょうから」
②「おまえは自分の言動を教会の決定にゆだねるつもりか?」
「私を遣わされた神、聖母マリア、そして天国にいるすべての聖人や聖女たちにおまかせしています。また私は、神と教会はまったく同じひとつのものであり、その点に異論があるはずはないと考えます」
③「おまえは地上における神の教会、すなわち教皇聖下、枢機卿、大司教、司教、そのほか教会の高位聖職者たちにしたがうべきだと思うか?」
「はい。しかし、まず第一に、神に仕えるべきです」
④(「声」の問題に関して)
「聖ミカエルがあらわれたとき、どんな姿をしていたか。裸だったのか?」
「神さまが、聖ミカエルさまに着せるものをもっていらっしゃらなかったとお思いになるのですか」
「裁判の結果について、『声』はおまえになにか言ったのか?」
「裁判に関することは、主のご意志におまかせしています。主のご意志が実現する日時はわかりません」
ルイ・モーリス・ブーテ・ド・モンヴィル「異端裁判でのジャンヌ・ダルク
ダンテ・ガブリエル・ロセッティ「救出の剣にキスするジャンヌ・ダルク」ストラスブール近代美術館
サン・トノレ門を攻撃するジャンヌ・ダルク
『メリアンの地図』 サン・トノレ門付近 1615年
サン・トノレ門を攻撃したジャンヌ・ダルクの記念碑
エマニュエル・フレミエ[ジャンヌの黄金像」ピラミッド広場 パリ
ジョージ・ウィリアム・ジョイ「牢獄で眠るジャンヌ・ダルク」ルーアン美術館
イシドール・パトロワ「牢獄で侮辱されるジャンヌ・ダルク」アンジェ美術館
ポール・ドラローシュ「ウィンチェスター枢機卿の尋問を受ける独房のジャンヌ・ダルク」ルーアン美術館
0コメント