「中世フランスのこころ」13 ジャンヌ・ダルク⑤オルレアン解放と戴冠式

 4月29日にオルレアンに入ったジャンヌは、5月4日にはサン・ルー砦を奪取。5月6日、オーギュスタン砦を奪取すると、フランス軍の指揮官たちは、予期せぬ勝利に、あとは守りに徹すべきだとジャンヌに言う。しかし、ジャンヌは完全な勝利を手にするためには、トゥーレル砦を陥落させるべきだと、怒ってこう言う。

「あなたたちにはあなたたちの考えがあるでしょうが、私には私の考えがあります。そして私の主の考えが実現し、あなたたちの考えは通らないとお考え下さい」

そして、5月7日 トゥーレル砦を奪取。5月8日、イギリス軍は包囲を解いて撤退した。こうして半年にわたってイギリス軍に包囲されていたオルレアンの町は、ジャンヌが入城してわずか10日で解放されたのである。オルレアンの町では、5月8日のこの勝利を記念する祭り「Fêtes de Jeanne d’Arc」(ジャンヌ・ダルク祭)が1435年からとぎれることなく続けられている。大聖堂の祭式や兵士の行進、空軍のデモ飛行などが盛大に催され、特に15世紀の英仏百年戦争の時代を再現するパレードは圧巻。さまざまなイベントやパレードには市民から選ばれた「ミス・ジャンヌ・ダルク」が参加。この「ミス・ジャンヌ・ダルク」選出は1912年から始まったが、応募資格は16歳から19歳の乙女(処女)で、両親ともにオルレアン市在住。ジャンウ・ダルクが受けたような処女検査はさすがに行っていないようだが、少女の学校や隣人の評判から少女の純潔性が判断されているとのこと。

オルレアン解放の翌日、ジャンヌは早くもシャルルのいるロッシュへむかう。そして、5月11日、王太子シャルルと再会しランス行きをせまる。

「一旦国王が聖別・戴冠を終えれば敵方の勢力は衰え続け、フランス国王にも王国にも危害をくわえなくなるでしょう」

 しかし、側近たちは反対する。ロッシュ城からランスまでの道のりは敵軍(イギリス軍と結んでいたブルゴーニュ公フィリップ善良公)の支配下の土地を通らなければならないからだ。確かにその地域を突破してランスに行くことは危険な賭け、常軌を逸した計画だった。日夜会議が繰り広げられるが、話は一向に進まず平行線をたどるばかり。ジャンヌは粘り強くシャルルを説得。

「私たちに必要なのは宮廷の会議ではなく、戦場における武勲なのです」

 ジャンヌは、ロワール河周辺の都市を次々にイギリス軍から奪回していく。6月17日のパテーの戦いでは、イギリス側の死者3000人に対して、フランス側の死者はわずか3人という圧倒的大勝利を収める。6月29日、シャルルはようやくランス行きを決意する。

 翌日、ブルゴーニュ公の支配下にあったオーセルに到着。交渉の末通過を認めさせる。次の進軍先はトロワ。9年前の1420年、シャルルから王位継承権を奪ったトロワ協定が結ばれた町。開城の困難が予想された。しかし、到着した時ジャンヌはシャルルに言う。

「3日以内に、愛によるか、力によるか、勇気によるか、いずれにせよトロワの町にお入れします。そうすれば、不誠実なブルゴーニュ派は、すっかり仰天することでしょう」

 そしてなんと翌日の7月10日には町の門が開かれ、トロワの代表者たちがシャルルに町の鍵を手渡しにやって来たのだ。7月14日に到着したシャロンも、トロワと同じようにシャルルに忠誠を誓う。そしてついに7月16日夕方、シャルルはランスの町に足を踏み入れた。

 そして翌日、ランス大聖堂で待望の「聖別・戴冠の儀式」が挙行され(もちろんジャンヌも参列)、王太子シャルルは晴れて「正統のフランス国王シャルル7世」であることを天下に宣明したのである。戴冠式のあと、ジャンヌは国王シャルル7世の前にひざまずきこう言った。

「気高き国王陛下、いまや神のご意志が実現されました。神がお望みになられたように、私は陛下をこのランスの町にお連れし、聖なる戴冠式をあげていただきました。これで陛下は本当の国王になられ、王国は陛下のものとなったことが示されたのです。」

 その場面を見ていたすべての人々は、大きな感動につつまれたと記録されている。

ジュール=ウジェーヌ・ルヌヴー「オルレアン包囲戦におけるジャンヌ・ダルク」パンテオン パリ

ヘルマン・スティルケ「戦うジャンヌ」エルミタージュ美術館

王太子とジャンヌに町の鍵を手渡すトロワの住民たち マルシアル・ドーヴェルニュ「国王シャルル7世を悼む祈り」から抜粋された細密画

ノートル・ダム大聖堂 ランス

「シャルル7世の戴冠式におけるジャンヌ」パンテオン パリ

ドミニク・アングル「戴冠式のジャンヌ」

ジョン・エヴァレット・ミレー「ジャンヌ・ダルク」

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