「中世フランスのこころ」12 ジャンヌ・ダルク④オルレアン入城
謁見後、すぐに王太子シャルルの信頼を勝ち取ったジャンヌだったが、シャルルは慎重にことを進める。ジャンヌの「乙女」(「ラ・ピューセル」本来「処女」という意味)という自称が真実であることを確認するために、まず行わせたのがジャンヌの処女性検査。彼女が魔女でないことを確認するためだ。魔女は悪魔と交わっているから処女ではありえないし、処女は天使のように無性的な存在で、それ故に聖なる力を持っているとされた。この検査をパスしても、さらにポワティエの高等法院で3週間にわたる審問が行われた。「お告げ」の実態が神学的に正当なものであるかを神学者にチェックさせるためだ。日常の態度も観察されたが、ジャンヌはあらゆる点で合格。査問委員会は王太子に次のように報告する。
「彼女の中には悪いものはなにも認められず、善なるもの、謙譲、純潔、献身、実直さだけが認められた。オルレアンの直面している緊急の必要と危機にかんがみれば、彼女の願いを聞き入れてオルレアンに送ってよいであろう。」(「復権裁判」における委員たちの証言)
こうしてようやくジャンヌは馬と甲冑を与えられ、執事1人、小姓2人と軍使2人を割り当てられ、オルレアンへの補給部隊に同伴して、念願のオルレアンに向かった(1429年4月)。当時のオルレアンはどのような状況だったか?ジャンヌがオルレアンに向かう半年前(1428年10月)、イギリスは軍隊をオルレアンに派遣し、町を包囲しはじめていた。オルレアンの町はその南に、当時ロワール川に2つしか架かっていなかった橋を持っていた。そのため、川を挟んで北と南に分かれる両軍にとって、この町は決定的な重要性をもっていた。イギリス軍はこの町をおさえて、北部の占領地域と以前からイギリス領だった南西部のギエンヌ地方(中心都市はボルドー)をつなぐ道を確保し、さらにロワール川の南で臨時政府をつくっていた王太子シャルルを捕らえようとしていた。
4月29日、ジャンヌがオルレアンの防備の指揮官・通称「バタール」(「私生児」という意味。捕虜となっていたオルレアン公シャルルの異母弟ジャン)と対面したのは、町の東側のロワール川の上流シェシー。彼はジャンヌをすぐに信頼したのだろうか?バタールは「復権裁判」で、初対面のジャンヌについてこう証言している。
「ジャンヌは私にこう言いました。『私に流れの南側を進ませてイギリス兵のいる所を避けるように命じたのはあなたですか。・・・わが主の命令はあなた方の命令よりはるかに賢くて確かなのです。・・・神はオルレアンの町を憐れみ給い、敵方がオルレアン公の町を奪うのを許そうとされないのです』と。するとそのとき突然、それまで反対の方角に吹いていて、オルレアンの町に運ぶ船団が進むのを妨げていた風向きが変わって、我々は船に帆を張って船と筏を町に進めることができました。・・・この時以来、私はジャンヌの中に高い希望を見出しました。」
こうしてジャンヌはこの日の夜、バタールとともにブルゴーニュ門から町に入った。『籠城日誌』(籠城のさなかに毎日記録されていたメモをもとに後に編纂)のこの日の記事は、神のお告げによってオルレアン解放を約束する乙女を待ちかねていた市民たちの、歓迎と期待の気分の爆発を余すところなく伝えている。
「その夜8時、イギリス兵からは何の妨害を受けることなく甲冑に身を固め、、白馬に跨って乙女は町に入ってきた。先駆の兵に持たせた純白の旗印には百合の花を手にした二人の天使が、槍先の小旗にはお告げを受ける天使が描かれていた。・・・傍らに付き添うは美々しく武装した馬上のオルレアン公庶子と気高く雄々しげな数名の騎士と従者。隊長と兵士たちがこれに続く。・・・オルレアンの町からは別の兵士や男女の市民たちがおびただしい松明を掲げ、歓声をあげて出迎えた。あたかも神が降り立ったようであった。・・・大勢の男女や子供が乙女やその馬に触れようとひしめき合ったため、松明を持った一人が乙女に近づきすぎ、火が槍先の小旗に燃え移った。すると乙女は拍車を蹴って馬の向きを変え、戦場に慣れきったような態度で落ち着いて小旗に近寄って火を消した。兵士たちもオルレアンの市民たちも驚異の念でこれを見守った。」
ジョルジュ・サンク橋とオルレアン大聖堂
1428年9月のオルレアン オルレアン包囲戦の最中である
オルレアン攻防戦図
ジャン・ジャック・シェレール「ジャンヌのオルレアン入城」オルレアン美術館
「ジャンヌ・ダルク騎馬像」 マルトロワ広場 オルレアン
「ジャンヌ・ダルク騎馬像」 マルトロワ広場 オルレアン
0コメント