「中世フランスのこころ」11 ジャンヌ・ダルク③シノン城へ
ボードリクールは執拗に食い下がるジャンヌとそれを支持する住民たちに、ついに根負けし、王太子(シャルル7世)のいるシノンへ出発することを許す。護衛にあたったのは、ジャンヌの信奉者となっていたジャン・ド・メッスとベルトラン・ド・プーランジー、彼らの従者たち、連絡事項を伝えるための伝令使、弓兵の合計6名。すでにジャンヌを信頼しはじめていたヴォークルールの住民たちは、彼女が馬に乗ることができるよう、男物の服と馬を贈った。こうして1429年の2月後半のある日、ジャンヌは護衛の男たちとともにヴォークルールを出発した。このときジャンヌは、まだ17歳だった。
ヴォークルールからシノン城までは600㎞。しかもイギリス軍やブルゴーニュ派の勢力圏。長引く戦いで兵士たちに踏みにじられ、道も橋もなくなっていた。川は水かさを増していた。そこを闇に乗じて横切るという11日間の危険な旅。1泊目は修道院だったが後は野営が続いた。二人の騎士がジャンヌを守るように側に寝た。6人の男たちは、みなイギリス軍に遭遇する恐怖におののいていた。彼らは、主がついているのだから何も心配することはないというジャンヌの絶対の確信に、次第にすがるようになっていく。そして、ようやくイギリス軍のいないオクセールの町へ着いた頃には、道中ずっと男たちを励まし続けたジャンヌはすっかり将としてのカリスマ性を獲得していた。ジャンヌは町のカテドラルに入ってミサに出席した。男たちは神に感謝し、ジャンヌを信じた。
シノン城に入城したジャンヌは、2日間待たされる。亡命政府の宮廷にあって鬱々としていたシャルルは、神懸かりの少女に会うことを躊躇していたがついに謁見を許す。王はわざと廷臣たちに混じって目立たなくしていたが、ジャンヌは一目で見抜いてしまう。はじめ王は自分が王ではないと言い張っていたが、彼女は跪いて王の膝に接吻した。ジャンヌはこう切り出した。
「王太子さま、私は乙女ジャンヌです。天の王が私に命じてあなたをランスで即位させよと言いました。あなたは天の王の代理、フランス王になられるでしょう。神は私にあなたが真のフランスの相続者であり王の息子だと言い、あなたを連れてランスに行って即位をさせよと言いました」
王位に就くためには、古都ランスの大聖堂で戴冠式をあげなければならないというのが、始祖クローヴィス以来のフランスの伝統だったのである。
ジャンヌの言葉が、若き王太子シャルルに衝撃を与えたことは容易に想像できる。当時26歳だった彼の人生は、不安と困難に満ちたものだった。生まれた時から彼の日常は、謀略と暗殺にとりかこまれており、ふたりの兄ルイとジャンも、恐らく暗殺によってこの世を去っていた。正当な王位継承権を奪われたのも、実母イザボーがイギリス=ブルゴーニュ側につき、シャルルを「不義密通の子」と断言したからだった。さらに現在の戦局も、最重要拠点であるオルレアンをイギリス軍に包囲され、まさに絶体絶命のピンチ。そこへ600㎞の道をものともせず、ひとりの少女が、戴冠式をあげて王位につけるという神のお告げ運んできてくれたのである。
しかし、疑い深いシャルルがこれだけで直ちにジャンヌを信頼したわけではない。シャルルがジャンヌを信用したのは、側近を遠ざけて二人だけでなされた「秘密の話」による。この時「ジャンヌが国王に告げた秘密」は、処刑裁判においてもジャンヌが最後まで沈黙を守り続けたため、その内容については永遠の謎になっている。いずれにせよ、その「秘密」をジャンヌから聞いた後で廷臣たちの間に戻ってきたシャルルは、まるで別人のようで、突然顔を輝かせて、やる気を起こしたと、ある目撃者がジャンヌの復権裁判で証言している。
この会話をきっかけにシャルルはジャンヌを信じることに決め、彼女は城内に居室を与えられた。しかし、ジャンヌが戦闘司令官としてオルレアンにおもむくまでにはさらなる「試験」をパスしなければならなかった。
シノン城
「ジャンヌ・ダルク像」ヴォークール市庁舎
ジャン・ジャック・シュレール「ヴォークルールを出発するジャンヌ」ヴォークルール市庁舎
シノン城 17世紀
「国王のもとへ導かれるジャンヌ」 マルシアル・ドーヴェルニュ『国王シャルル7世を悼む祈り』から抜粋された細密画
髪を長く伸ばしドレスを着たジャンヌの姿は史実に忠実ではないが、両脇の二人の騎士(ジャン・ド・メッスとベルトラン・ド・プーランジー)に伴われているのは史実通り
ピエール・カリエ・ベルーズ「シノン城の大広間で王太子シャルルに謁見するジャンヌ・ダルク」
ルイ・モーリス・ブーテ・ド・モンヴィル「王太子に会うジャンヌ」
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