「中世フランスのこころ」7 サント・ジュヌヴィエーヌ①アッティラ

 5世紀前半に中部ヨーロッパに建国されたフン族の王アッティラは、その容赦のない暴虐ぶりから、ローマ帝政末期に広がっていたキリスト教の信者からは「神の災い」「神の鞭」と呼ばれ恐れられた。452年、アッティラは、北イタリアに侵攻して道々で略奪を行う。ヴェネツィアは、人々がこれらの攻撃からラグーナ(潟)の小さな島へ避難したことによってつくられた。

ヴェネツィア文化の発祥地であり7世紀には人口1万人を数えたといわれるトルチェッロ島。5世紀から10世紀までラグーナの最も重要な町として栄えたが、川が運んでくる土砂によって沼地になるに従い、マラリヤがはやり、次第に衰え、住人はムラーノやヴェネツィア本島(中心はリアルト)に移った。しかし、そもそもこのラグーナに人々が住むようになったころ、肥沃なロンバルディアの平原と比較すればこの地はマラリアが蔓延し、取るに足らぬ集落しか営めないような沼沢地だった。そんな場所で人々があえて生活を営もうとしたのは、アッティラの恐怖がいかに大きかったかを示している。トルチェッロ島のサンタ・フォスカ教会の前に「アッティラの玉座」と呼ばれる石でできた椅子がある。これはアッティラがトルチェッロ島に侵入、大勢の住人を殺したとき、アッティラが権力と神への忠誠を誇示するために作らせたものだといわれる。

 アッティラは、トルチェッロ島侵略の前年の451年、ライン川を超えてガリアに侵入している。たちまちトレーヴ、メス、ランスを攻略した。ランスでは、司教ニカシウスが教会の祭壇で虐殺された。アッティラの軍勢がパリに迫ったとの知らせが届くと市民たちは恐怖におののく。パリ市民の主だった連中は、安全な場所へ逃亡するため、家財道具をまとめ始める。それをジュヌヴィエーヴはおしとどめようとする、キリストのお守りがあるなら、パリは必ず救われるのだから、と。人々の反抗の声が大きくなり、彼女をにせ預言者とののしり、石で打とうとする者、井戸の底へ投げ込めと叫ぶ者まで出てきた。この時、知らせを受けてオセールの町から司教代理がかけつける。今は亡き聖なる司教ジェルマン(「オセールの聖ジェルマン」)が、ジュヌヴィエーヴを神に選ばれた女と認めていたことを告げる。興奮していたパリの人々も少しずつ落ち着きを取り戻し、すべてをジュヌヴィエーヴの祈りに託することとなる。アッティラはそのまま西進せず、南に折れて、オルレアンをうかがい、再び北方へ退いて行った。「祈りによって、フン族の軍勢をパリから遠くへと迂回せしめたジュヌヴィエーヴ」とジュヌヴィエーヴ伝の作者は記した。

 パリは、いにしえのバビロンやローマと同じく悪徳と退廃の町という一面も持っていて、神の怒りにさらされながら、それでも今日まで沈まずに、何とか持ちこたえてきた。船のしるしのもとに「たゆたえども沈まず」(Fluctuat nec mergitur)は、パリの紋章に刻まれた句である。信仰の目で見るなら。この町が神の憐れみに支えられてきたのは、辛うじて小さな信実の持続があったからといえるのだろう。それは、聖ジュヌヴィエーヴをはじめ、何人もの献身的な人びとがパリに寄せてきたいとおしみと一途な愛の結果によるものである。

 1914年、マルヌの戦場で壮絶な戦死をとげた愛国者、熱血の詩人シャルル・ペギーはうたっている(「パリの守護聖女ジュヌヴィエーヴ)」。

「・・・ナンテールで羊を飼いながら       春 初めてのツバメが来るのを待っていた人

 あなただけは ごぞんじだ この町の信実さを  さまようように見えながら ここにしっかと座を

占めたこの町の・・・

 あなたは語る 神様から このつとめを委ねられ 人々を見守り 親身に世話をしてきた者として

 あなただけが言えるのだ この町の信実さを   民主的であるくせに 封建的なところもあるこの町の

 ・・・・」

「パリの守護聖女 ジュヌヴィエーヴ」カルナヴァレ美術館

ピエール・プヴィス・ド・シャヴァンヌ「祈る子供の頃のジュヌヴィエーヴ」パンテオン パリ

「羊飼いの聖ジュヌヴィエーヴ」カルナヴァレ美術館

ピエール・プヴィス・ド・シャヴァンヌ「パリを見おろす聖ジュヌヴィエーヴ」パンテオン パリ

パリ市の紋章

サンタ・フォスカ教会 トルチェッロ島

「アッティラの玉座」 トルチェッロ島

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