「中世フランスのこころ」6 サン・ドニ大聖堂②ゴシックの光
パリの初代司教・聖ドニの墓の上に、475年頃教会を建てたのがサン・ドニ修道院の始まり(フランス革命後に一般信者向けの教会になり、大聖堂【カテドラル】に格上げされたのはまだ1966年のことにすぎない)。7世紀にはダゴベール1世(639年、フランス歴代国王のうちで初めて サン・ドニ修道院 に埋葬された)が、8世紀にはぺパン(ピピン)短躯王(ローマ教皇にランゴバルド王国を倒して獲得したラヴェンナ地方を寄進【ピピンの寄進】)が、それぞれ建物を新築したものの、時代が経るにつれ、この修道院は徐々にさびれていく。
そこに登場したのが、ゴシックの端緒を開いたというべき修道院長シュジェール(1081―1151)。彼は修道院を復興しただけでなく、国王の篤い信頼を得て、フランスの摂政さえつとめた大立者だった。極貧の家に生まれたシュジェールは、幼くしてサン・ドニ修道院に入れられた。修道院内の学校では後のルイ6世と机を並べ、生涯の親交が始まる。シュジェールは、サン・ドニ修道院が悲惨な状態にあるのを見て、心を痛めていた。彼自身こう記している。
「この修道院内に育った子として私は、教会の現状が悲痛の種であった。成人した時、是非これを回復したいとの熱い願いが心に起こった」
修道院長となるのは41歳の時で、以後、修道院の大胆な改革に邁進。シュジェールは、ほとんど「無からはじめねばならなかった」。建築家、金銀細工師、ガラス工、彫刻家、石工などを各地から駆り集め、必要な材料を諸方面に調達しなければならなかった。ポントワーズの採石場から石を、イタリアから大理石を、イヴリーヌの森から材木を、その他、金銀、宝石類を運んだ。ともかく、どこにもモデルはなかったのである。かれは、旧約聖書で詠んだソロモンの神殿の神聖な美を心に甦らせ、巡礼者たちから聞くオリエントのビザンティン聖堂のまばゆいばかりの壮麗さを、イメージにうつし上げようとはかる。ひとりの偉大な人物シュジェールの天才と霊感が、ゴシック・フランスの先頭に立つサン・ドニを生んだのである。
まずファサードに、以後のゴシック教会の定番となる「薔薇窓」を切り拓いた。また多くの人々がスムーズに礼拝できるように聖堂の拡張を図り、内陣の周りに二重の周歩廊と放射状祭室を設け、ステンドグラスからの光がふりそそぐようにした。内陣の完成は1144年。盛大な献堂式がとり行われたこの年が、ゴシック建築発祥のひとつの目安とされる。
ところでゴシックの空間を解く鍵の一つは「光」。聖書によれば、光は神による最初の創造物であると同時に、神自身「近づきがたい光の中に住み」、「光を衣のようにまとう」。そして神の「輝きは光のようで、その光は彼の手からほとばしる」。イエス自身も「光としてこの世にきた」、「すべての人を照らすまことの光」であった。宗教的な世界の中に生きていた中世の人々は、現代に生きる我々に比べてはるかに強い感受性と想像力をもってゴシックの大聖堂における光を、神秘の光、イエスの光として体験した。
誤解しがちだが、ゴシックの教会堂において、ロマネスクに比べて窓の面積が格段に大きくなっているのは、堂内を明るくするためではない。神秘的な色彩の光で堂内を満たすためであった。ドイツの美術史家ハンス・ヤンツェンは、ゴシックの大聖堂における光の体験を次のように描写する。
「ゴシックの空間は、名状しがたいほどの神秘性を帯びた暗い赤紫色の光に浸されている。光は、一つの光源から来るのではない。その輝きは自然界の天候により変動し、時に強まり、時に弱まる。そして時には、ほの暗い色彩を想像もできないほどの鮮やかさで燃えたたせる」
中世のステンドグラスの大半は、のちに透過率の高い明るいステンドグラスや白色ガラスに取って代わられたので、中世の人々と同じ光を見ることは現在ではなかなか困難になってしまったが、シャルトル大聖堂やブールジュ大聖堂など少数の教会堂においては、まだ中世の光を体験することができる。この高貴なる光の膜に包まれて、中世の人々は、自らが光なる神の御手のうちにあると感じたことであろう。
シャルトル大聖堂
シャルトル大聖堂 西ファサード
シャルトル大聖堂 内部
シャルトル大聖堂 北バラ窓
シャルトル大聖堂 南バラ窓
「シュジェールの鷲」ルーヴル美術館
サン・ドニ修道院の宝物館で古代の斑岩の壺が見つかり、修道院長シュジェールがそれを典礼用の容器に作り変えることを思いついた(鳥の首の中に管がつけられ、水差しとして使えるようにした)
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