「中世フランスのこころ」8 サント・ジュヌヴィエーヌ②パンテオン
ローマが七つの丘(カピトリーノの丘、パラティーノの丘など)からなる町だということはよく知られているが、パリも丘の町だ。もっとも高い丘は、標高130メートルのモンマルトルだが、ここがパリ市に編入されたのは、パリ大改造を行ったナポレオン3世の時代の1860年のこと。それまで長らくパリで最も標高の高い丘と言えば「サント・ジュヌヴィエーヴの丘」だった。現在、ここにはパリのあちこちから見える、巨大なドームとコリント式の円柱が特徴的な新古典主義様式の壮麗な建造物が建っている。パリを象徴する建物のひとつ「パンテオン」だ。
パンテオンの歴史は6世紀初めまでさかのぼる。507年にキリスト教に改宗したフランス国王クロヴィスは自分と妻の墓所として大聖堂を建設。それがサン・ピエール・エ・サンポール教会だった。パリをアッティラの侵入から守った聖ジュヌヴィエーヴは502年に亡くなり、この教会のクリプトに葬られた。教会を造ったクロヴィス王も彼女の墓の隣に埋葬されたと言われている。この教会は12世紀に修道院になり、1744年にはルイ15世によってサント・ジュヌヴィエーヴ教会へと変貌していく。それは聖ジュヌヴィエーヴへの祈願によって重病を克服したルイ15世が、自分を救った聖女にこの大聖堂を捧げたいと希望したためだ。新しい大聖堂の計画は新古典主義建築の代表的な建築家スフロに委ねられた。彼は古代、ゴシック、ルネサンスとさまざまな時代の芸術から着想を得て、ローマのサン・ピエトロ大聖堂や、ロンドンのセント・ポール大聖堂に比肩するような斬新な建物を設計。着工は1764年。
そして迎えたフランス革命。丸屋根の建造は終了していたものの、教会としての聖別を受けていないという状態だった。1791年、憲法制定議会は、教会を国の偉人に捧げる霊廟に変えることを決定。フランス革命の偉人ミラボー(1749-1791)の葬儀は、1791年4月、パンテオンで行われ、啓蒙の世紀を代表する哲学者ヴォルテール(1694-1778)の遺骨も1791年7月に移送された。元々パンテオンの立つ場所に眠っていた聖ジュヌヴィエーヴの石棺は、フランス革命の混乱を乗り切り、パンテオンの向かいにあるサン・テティエンヌ・デュ・モン教会に移された。
その後パンテオンはフランス史の有為転変のままに、数々の変化を遂げる。1805年、ナポレオン1世の治政下では、パンテオンはふたつの役割を与えられました。身廊はカトリック信仰の場に、地下納骨堂は国家功労者の栄誉を讃える場となる。ブルボン王朝(ルイ18世とシャルル10世)の治政下ではカトリックの信仰の場に、ルイ=フィリップの時代には無宗教の霊廟にと19世紀を通じてパンテオンの役割は何度も変更された。1851年、ナポレオン3世は、パンテオンをカトリックの信仰の場にする。そして1885年、熱心な共和主義者だったヴィクトル・ユゴーの国葬以来、パンテオンは再びフランス史を代表する偉人を祀る国家の霊廟となった。
パリのパンテオン前にある教会が「サン・テティエンヌ・デュ・モン教会」。ここはパスカルやラシーヌの墓でも有名だが、歴史的にはパリの守護聖女(パトロンヌ)ジュヌヴィエーヴの聖櫃が重要。18世紀末まで、パリに大災害が迫るたびに、この聖ジュヌヴィエーヴの櫃は担ぎ出され、丘を下り行列を作ってノートル・ダムまでパリの町を練り歩いた。主なものだけでも、13世紀初めから500年間に70回近くを数える。 もともとこの教会があるこの丘には聖ジュヌヴィエーヴ修道院があり一帯がすべてその領地だった。パンテオンも、もともと聖ジュヌヴィエーヴに献堂するために建てられた。聖ジュヌヴィエーヴ修道院に仕えていた従僕たちは、1220年まで修道院教会の地下聖堂でミサにあずかっていたが、その数が増えたので、あらたに隣接の地に新会堂の建設が必要とされるにいたった。こうして13世紀に聖エティエンヌ(ステファノ)に捧げられた教会が建てられた。
シャルル・フィショ「1870年以前のパリの一般的な眺め」1855年 右上がサント・ジュヌヴィエーヴの丘
パンテオン 2016
パンテオン 内部
シャヴァンヌ「聖ジュヌヴィエーヴの生涯」連作 パンテオン
シャヴァンヌ「聖ジュヌヴィエーヴの生涯」連作 パンテオン
サン・テティエンヌ・デュ・モン教会
18世紀に描かれたサント=ジュヌヴィエーヴ修道院
「聖ジュヌヴィエーヴの墓」サン・テティエンヌ・デュ・モン教会
聖ジュヌヴィエーヴの聖遺物を運ぶ行列
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