「中世フランスのこころ」5 サン・ドニ大聖堂①

 歴代のフランス国王の戴冠式が行われる定めになっていたのはランス大聖堂だが、彼らが葬られた墓所はサン・ドニ大聖堂。フランソワ1世も、カトリーヌ・ド・メディシスもマリー・アントワネットもここに眠っている。その数は王が42人、王妃が32人。63人の王太子および王女もこの地に眠っている。

なぜ国王たちは、この地に眠ることを望んだのか?それは、聖ドニの墓の傍らで眠ることで永遠の安心を得ようとしたからだろう。では聖ドニとはどんな人物か?3世紀、イタリアからやってきた7人の宣教師団が、ガリアにキリスト教の教えを広めるためパリ(ルテティア)へ辿りつく。この宣教師団の中にパリの初代司教となるドニがいた。彼は司祭リュスティック、助祭エルテールと共にシテ島(パリ)に暮らす。250年頃、ドニは多くの人々を改宗させたためにドルイド(ケルト人社会における祭司)の怒りを買い、彼らの聖地であったと思われるパリ近郊の最も高い丘(モンマルトル)で斬首刑に処せられる。伝説によるとドニは斬首された後も切られた自らの頭部を腕に抱えたまま、北に数キロメートル歩き続けカトラクスの村(現サン・ドニ)に着いたところで倒れ絶命。信仰あついひとりの女性カトゥラが3人の殉教者(ドニ、リュスティック、エルテール)を埋葬し、そこに簡素なモニュメント(小礼拝堂)を建てる。これがサン・ドニ大聖堂の起こりである。

このサン・ドニ聖堂をフランス王家の一大廟堂とすることを決定し、自分に先立ち、7世紀以後の全ての王の肖像を作らせてここにおさめるようにと配慮したのは聖ルイ(ルイ9世)。しかし現在、ここにならぶ石棺の大部分は空っぽで、遺体や遺骨は入っていない。それは、あのフランス大革命の時代、この聖堂もまた、凌辱の対象とされたからである。1793年7月31日、「かつての王どものいまわしい思い出」をそそる一部の建物を破壊する命令が下され、3日間で51の国王の墓所が破壊され、47の寝像が砕かれた。その2カ月後、猛り狂った暴徒の群れは地下聖堂にも押し入り、2週間にわたって敷石をはがし、棺をくつがえし、死体を粉砕し、遺骨を散乱させた。フランス革命の負の側面を象徴する出来事である。

 ところで聖ドニ(サン・ドニ)像、彫刻でも絵画でも一度見たら忘れられない姿だ。はねられた自分の頭を自分で両手に抱えている。「シュザンヌ・ ビュイッソン小公園 Square Suzanne Buisson」は、モンマルトルの丘の北西エリアにある小公園だが、 サン・ドニが切り落とされた自分の首を洗ったという井戸があった場所にサン・ドニ像が立っている。ノートル・ダム大聖堂の西側のファサードの南入口には、天使に挟まれたサン・ドニ像がいる。パンテオンではレオン・ボナの「サン・ドニの殉教」、ルーヴル美術館ではアンリ・ベルショーズの「サン・ドニの殉教」の絵を見ることができる。なんとも奇妙なフランスの守護聖人サン・ドニ。

レオン・ボナ「サン・ドニの殉教」パリ パンテオン  部分

レオン・ボナ「サン・ドニの殉教」パリ パンテオン

アンリ・ベルショーズ「サン・ドニの殉教」ルーヴル美術館

「サン・ドニ像」ノートル・ダム大聖堂(パリ)西ファサード

「サン・ドニ像」モンマルトル シュザンヌ・ ビュイッソン小公園

サン・ドニ大聖堂 2020年

サン・ドニ大聖堂 1780年

フランソワ1世とクロード・ド・フランスの墓

アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの墓

ルイ16世とマリー・アントワネットの墓

サン・ドニ大聖堂内のフランス王家の石棺配置図

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