「中世フランスのこころ」2 聖遺物信仰②聖ロムアルドゥス
聖遺物を求める当時の人びとの熱情は、現代人からは信じがたいほどだ。ホイジンガ『中世の秋』にこんな一節がある。
「紀元約1000年頃ウンブリア山村の民衆は、隠者ロムアルドゥスを危うく撲殺しかけた。これは彼の骨を失いたくなかったためだった。」
聖ロムアルドゥス(イタリア語:ロムアルド 952年-1027年)はカルマドリ派修道会の創設者。イタリアのラヴェンナの貴族の家庭に生まれ、何不自由なく暮らしていたが、20歳のころ、父親が反対派の市民と争い、相手を殺した事件によって状況が一変。ロムアルドは、市外のベネディクト会の修道院へ逃げ、今までの自分の価値観が誤っていたことに気付き、心を改めて修道士となる。3年後、彼は、厳しい修行をしているマリヌスという隠修士の弟子となり、祈りと修行に励む。彼の徳の高さは人々の知るところとなり、時の皇帝を始め、各界の名士たちまでが教えを受けに行った。ロムアルドが撲殺されそうになったのは、修業していた修道院から故郷へ戻ろうとした折の出来事。彼をすでに聖人視していた近隣の民衆は、かくも功徳のある人物がこの地を去ってしまってはいかなる災禍がふりかかるかもしれないと恐慌をきたし、必死に引き留めにかかった。しかしロムアルドの意思を覆せないと悟ると、せめて聖遺物として留まってもらおうと彼の殺害を計画したのだ。幸いロムアルドは事前にこの計画を察知し、剃髪した上に暴食をしてみせることによって狂人を装い、どうにか難を逃れて帰郷を果たしたという。聖人や聖遺物の持つパワー、エネルギー(ウィルトゥス virtus【ラテン語】)への希求、依存がいかに強かったかを示すエピソードだ。日本人になじみの薄い聖ロムアルドの場合ですらこれだから、ルイ9世が国家予算の半分以上の大金を払ってまで「茨の冠」を手に入れようとしたのか不思議ではない。
そもそも聖遺物とは、「聖人の遺体、遺骨、遺灰」や「聖人が生前に身にまとったものや触れたもの」を言うが、キリスト教中世においては「黄金や宝石よりも価値がある」と形容された。それは、聖人の身体に生前から宿り、死後もその遺体に残存し続ける特別な力(ウィルトゥス)を持つとされ、そのため人々は聖遺物に何より奇跡、なかでも病気の治癒を願った。
では、聖遺物の中で高い価値を与えられたものは何か?一般的には、「聖人の遺体、遺骨、遺灰」が第一級の聖遺物とされ、「聖人が生前に身にまとったものや触れたもの」は副次的聖遺物とされるが、例外があった。それはキリストと聖母マリア関連の聖遺物である。キリストは、磔刑後、復活、昇天したとされるし、聖母マリアは死後被昇天したとされ、いずれも地上に遺体が残されていないからだ。そして、中でも重要視されたのが、キリストの受難に関わる事物だった。キリストが架けられた十字架(「聖十字架」)、キリストのわき腹を刺した槍(「聖槍」=「ロンギヌスの槍」)、頭に被せられた茨の冠(「荊冠」)、四肢を十字架に打ち付けた釘(「聖釘」)などだ。ベルニーニはローマの巡礼路を整備するにあたって、サンタンジェロ橋をこれらの受難具を手にした天使像で装飾した。
このような聖遺物を収めた教会は、多くの巡礼者を呼びキリスト教の布教、堅信につなげることができた。その街は潤ったし、また聖遺物をもたらしそれを収める教会を造った支配者の権威を高め、統治に大いに貢献した。ルイ9世が、聖遺物中の聖遺物である荊冠(茨の冠)を莫大な金を払ってまで購入したのにはこのような背景があったのだ。
サクレ・クール寺院ファサード 左が聖王ルイ騎馬像、右がジャンヌ・ダルク騎馬像
「ルイ9世騎馬像」サクレ・クール寺院ファサード 左手に茨の冠を手にしている
「サント・シャペル」
エル・グレコ「聖王ルイ」ルーヴル美術館
ヴァン・ダイク」茨の冠のキリスト」プラド美術館
グエルチーノ「聖ロムアルド」ラベンナ市立絵画館
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