「2021春 京都・奈良の桜」6 大原、原谷苑
何しろ今年の京都の桜の開花の早さは観測史上1位。見頃の桜を求めて久ぶりに大原まで足をのばした。訪れたのは三千院、宝泉院、実光院とバス停をはさんで反対側にある寂光院。宝泉院、実光院の庭園は見事だったが、好みは三千院の「聚碧園」(しゅうへきえん)。江戸時代の茶人・金森宗和による修築と伝えられる池泉鑑賞式庭園。隅にある老木「涙の桜」は室町時代の歌僧頓阿(とんあ)上人が詠んだ一首に由来。
「見るたびに 袖こそ濡るれ 桜花 涙の種を 植えや置きけん」
その桜は西行法師のお手植えとも、頓阿上人の友、陵阿(りょうあ)上人のお手植えとも伝わり、近年は5月に白い花を咲かせるという。
ところで、「三千院」の「三千」とは仏教の世界観で、想像上の宇宙全体のこと。「三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)」の略で、「三界(さんがい)」ともいう。世界の中央にそびえるという須弥山(しゅみせん)を中央に、四大洲、七山八海(ななせんはちかい)があるのを我々の住む小世界とし、小世界一千で「小千世界」、小千世界一千で「中千世界」、中千世界一千で、「大千世界」となる。千が三つ重なるので、これを「三千大千世界」、略して「三千世界」という。これが、ひとりの仏が教化する世界とされた。
「三千世界」と聞いて浮かぶのは高杉晋作の有名な都々逸。
「三千世界の烏を殺し 主と朝寝がしてみたい」
これは、客ではなく遊女の思いを詠んだ歌。遊女は、お客を繋ぎとめるために「貴男だけが本命だから、他の客に体を許しても心は許さないことをことを誓う」という旨を書いた起請文(誓約書)を客に渡すが、もちろん金づるになりそうな客にはむやみにばら撒く。この起請文は、熊野神社の護符の裏に書くのが決まり。書かれた誓いを破れば熊野の神の使姫たる烏が三羽死ぬということになっている。だから、歌の文句は「今まで数限りない男と起請文を書いてきたあたし(遊女)が貴方(=主【ぬし】)と寝ることで、世界中の鴉が死んでしまうことになってしまおうとも、それでも今だけは本当に愛している貴方と一緒に朝まで寝ていたい」という意味(ほかにも解釈はあるが)。
「寂光院」は、建物も庭も三千院とは比べようもないが、建礼門院徳子の人生に思いをはせながらめぐる楽しみがある。建礼門院徳子は平清盛と時子の次女で、16歳の時に、第80代高倉天皇に嫁ぎのちの安徳天皇をもうける。しかし、病弱であった夫の高倉天皇はわずか20歳にして崩御し、世は源平争乱の時代へと進んでいく。そして、1185(文治元)年3月、平家一門は壇ノ浦の戦いに敗れ、建礼門院は母の時子と、まだ8歳だった安徳天皇を抱きかかえて入水。母の時子と安徳天皇は亡くなるが、十二単を着ていた建礼門院は沈まず、海に浮いていたところを源氏方に助けられてしまう。その後、京に戻され、東山の長楽寺に入り、出家。そして、1185(文治元)年9月に我が子、安徳天皇と平家一門の菩提を弔うために、隠棲の場所となる寂光院に入る。その翌年の初夏、義理の父親である後白河法皇が訪れる。法皇はその侘び住まいに暮らす建礼門院の姿を見て、涙を流し、再会を果たしたふたりは、いつまでも懐かしく語り合ったと言われる。これが『平家物語』に出てくる有名な「大原御幸(おおはらごこう)」のくだり(御幸の真偽については不明)。『平家物語』は最後に、生き残った建礼門院を通して、平家の栄枯盛衰を見つめていく。その後も、建礼門院は平家一門と安徳天皇の冥福を祈り続け、再び、歴史の表舞台に登場することなく、1213(健保1)年にその波乱の生涯を閉じた。
こんな物語を思い浮かべながら名所旧跡を訪れるのが自分好みの旅のスタイルだと改めて感じた。翌日、原谷苑を訪れ、満開の桜の中を散策できたが、確かにその時は感激したがその思いは持続しない。寂光院の帰り道、一台のクラウンが止まりいかにも裕福そうな男性から「寂光院の桜はどうですか?」と聞かれた。見頃の桜を求めて点から点へ移動するのも一つの楽しみ方なんだろうが、自分のスタイルではない。
北斎「小原女図」
広重「京都名所之内 八瀬之里」
2021年4月7日 大原
2021年4月7日 三千院「聚碧園」
水野年方「平徳子」
月岡耕漁「能楽図絵」 「大原御幸」
下村観山「大原御幸」
2021年4月8日 原谷苑
2021年4月8日 原谷苑
2021年4月8日 原谷苑
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