「2021春 京都・奈良の桜」4 吉野山③
都が平城京から山城の地(784年~長岡京、794年~平安京)に移ってからも、万葉のころからの憧れは廃れることがなく、平安の宮廷歌人たちも吉野を盛んに歌に詠んだ。
「朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪」 坂上是則 「古今和歌集」
(明け方、空がほのかに明るくなってきた頃、有明の月かと思うほど明るく、吉野の里に白々と雪が降っていることだよ。)
平安の前期においては吉野といえば「桜」ではなく「雪」のイメージだった。それが平安中期ごろから「桜」が詠まれるようになり、平安も末期になると、吉野といえば「桜」という連想の歌が圧倒的になる。
「吉野山こぞの枝折の道かへてまだ見ぬかたの花を訪ねむ」 西行 「新古今集」
(吉野山よ。去年枝折りして入った道を変えて、今年はまだ見たことのない方面の花を尋ねよう。)
*「こぞ」=「去年」 「枝折(しをり)」=山路で帰りの目印に枝を折りかけておくこと
「み吉野の高嶺の桜散りにけりあらしも白き春の曙」 後鳥羽院 「新古今集」
(吉野山の峰のあたりの桜はもう散ったのか。吹きおろす山風までも、流れる桜の花びらで、白々と吹きすさぶ春の曙であることだ。)
*『枕草紙』の「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際・・・」をふまえた歌
吉野が歴史という表舞台でクライマックスを迎えるのは、後醍醐天皇によって朝廷(南朝)が建てられた南北朝時代。建武の新政に失敗した後醍醐天皇は吉野に移り、京(北朝)と別に吉野山に朝廷を起こした。その後醍醐天皇が詠んだとされる歌。
「ここにても雲井の桜咲きにけりただ仮そめの宿と思ふに」 後醍醐天皇 「新葉和歌集」
(吉野は、ただ仮そめの住まいと思っていたのに、ここにも「雲井の桜」が咲いたのだった。)
*「雲井の桜」=宮中の桜。特に南殿(紫宸殿)の桜をいうことが多い。
吉野の桜といえば、秀吉が行った花見もはずせない。秀吉絶頂期の文禄3(1594 )年(朝鮮出兵の文禄の役の真っ最中)、徳川家康、前田利家、伊達政宗ら錚々たる武将をはじめ、茶人、連歌師たちを伴い、総勢5千人の供ぞろえで吉野山を訪れ た。しかし、この年の吉野は長雨に祟られ、秀吉が吉野山に入ってから3 日間雨が降り続く。苛立った秀吉は、同行していた聖護院の僧道澄に「雨が止まなければ吉野山に火をかけて即刻下山する」と伝えると、道澄はあわてて、吉野全山の僧たちに晴天祈願を命じた。その甲斐あってか、翌日には前日までの雨が嘘のように晴れ上がり、盛大に豪華絢爛な花見が催され、さすがの秀吉も吉野山の神仏の効験に感じ入ったと伝えられている。
「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」本居宣長
(日本人である私の心とは、朝日に照り輝く山桜の美しさを知る、その麗しさに感動する、そのような心です。)
桜を詠んだ数多の歌の中でもとくに有名なこの歌を詠んだのは本居宣長。彼は、亡き父母がなかなか子宝に恵まれず、吉野の子守の神(吉野水分神社)に 熱心にお参りをしたご加護で自分が生まれたと信じており、そのお礼参りのため、世に聞く吉野の桜見物をかねて春の吉野に訪れた(『菅笠日記』)。一般庶民の吉野への旅が盛んになり、春の吉野山は今と変わりない賑わいを呈するようになったのはこの頃からのようだ。
吉野水分神社 2021年4月5日
一光斎芳盛「東山義政公吉野遊覧之図」
東山義政は室町幕府8代将軍足利義政。将軍職を子義尚に譲って東山に隠居したところから「東山殿」と呼ばれた。
奥村土牛「吉野」
後醍醐天皇
「吉水神社」 源義経が弁慶らと身を隠したこと、後醍醐天皇の行宮(「あんぐう」天皇が行幸のとき、その地に設ける仮の御殿)であったこと、豊臣秀吉が花見の本陣とした等の歴史的逸話で知られている
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