「2021春 京都・奈良の桜」3 吉野山②
吉野は古代から今に至るまで、山岳信仰の地として尊ばれてきたが、その点だけでは高野山、熊野三山に劣る。吉野の存在を圧倒的なものにしてきたのは、数えきれないほどの和歌に詠まれてきた歌枕としての知名度だろう。まず日本最古の歌集、万葉集から。
「見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む」 柿本人麻呂
(見あきることとてない吉野、その川の滑らかさが永遠であるように、いつまでも絶えることなく、くり返し見よう。)
現在、吉野を有名にしているのは桜の名所としてだが、奈良時代は違っていた。『万葉集』には吉野を詠んだ歌が百首近くあるが、天皇が築いた吉野宮という離宮があった場所としてその山や川の美しさを詠んだものばかりなのだ。吉野宮へは、歴代の天皇がたびたび行幸したが、なかでも最も多く吉野へ行幸したのが持統天皇。在位中に31回、退位後も2回、吉野を訪れている。この柿本人麻呂の歌は、彼がそんな持統天皇の行幸に従って行った際、吉野宮を褒め称えて詠んだ歌だ。
「よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見つ」 天武天皇
(昔のりっぱな人が、よき所としてよく見て「よし(の)」と名付けたこの吉野。りっぱな人である君たちもこの吉野をよく見るがいい。昔のりっぱな人もよく見たことだよ。)
言葉遊びのような歌だが、天武天皇が「よし」を強調(元々は「淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三」と外来文字の漢字で書かれ、六種類の「よし」【淑、吉、良、好、芳、四来】が記されている。)したのには深いわけがあった。天武天皇といえば、大海人皇子として兄である天智天皇の実子大友皇子と後継者争いの内乱(壬申の乱)を戦い、王座を勝ち取った人物。そして、その乱を決起したのがこの吉野の地。この歌は詞書に「八年己卯五月(六七九年五月五日)吉野宮ニ幸」とあり、この時天武天皇は後継となる草壁皇子ら六皇子を伴って吉野に行幸し、草壁を次期天皇として異母兄弟同士で協力し合うことを約束させた(吉野の盟約)。当時の吉野は霊力の満ちた特殊な場所と考えられており、持統天皇が何度も吉野への行幸を行ったのもその霊力の恩恵に授かろうとしたため。天武も昔の偉大な人がよく見てその霊力を認め、「よし(の)」と名付けた吉野の風景を見ながら、吉野の偉大な霊力を感じさせその前で盟約させることで皇子たちの結束をはかろうとしたのだろう。
かつて、壬申の乱で兄の天智天皇の子である弘文天皇(大友皇子)の近江朝廷を武力で滅ぼした天武天皇。自分の子供たちには、肉親縁者で争うようなことがないようにと盟約させたわけだが、天武天皇が亡くなった後、この盟約の場にもいた大津皇子が謀反の罪を着せられ処刑されるなど、結局肉親の間での争いと血なまぐさい悲劇が起こってしまう。
(菊池芳文「小雨ふる吉野」)
渡辺始興「吉野山図屏風」(部分)
(壬申の乱の経過)
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