「イギリス産業革命と紅茶文化」3 茶貿易の先陣はオランダ
ヨーロッパで初めて茶について知ったのはイギリスではない。16世紀イタリアのヴェネツィアの商人だ。当時ヴェネツィアは東洋と西洋を結ぶ貿易の重要な中継地で、最も国際的な都市であり、そこに絹や香料などと一緒に茶がもたらされたようだ。もちろん、実際に茶を東洋からヴェネツィアに運んだ(海路ではなく陸路で)のは、ペルシアの商人だったが。この茶が、緑茶か紅茶(正確には半発酵のウーロン茶)のいずれであったかは不明。そして、中国の茶と、その礼讃を初めて記述したのもやはりヴェネツィア人(役人)ジョヴァンニ・バッティスタ・ラムージオという人物である。彼は1559年刊行の『航海記』のなかにペルシャ人のハジ・マホメッドという商人から聞き出した中国の茶の話を記している。
「中国ではいたるところで、木の葉を利用している。この木の葉は中国では「茶」(チャ)と呼ばれ、その木は四川省と呼ばれる地方に生えている。この葉っぱは日常に用いられ、国じゅうで大変重宝されている。その葉は、乾燥した新鮮なものが摘まれ、それを湯に入れてよく沸騰させる。このように煎じたものを、空腹時にコップに一、二杯飲むと、熱、頭痛、胃痛、関節痛などに効果がある。そしてこれは熱いうちに飲まなければならない。」
その後、茶の情報は主にポルトガルの宣教師によってヨーロッパにもたらされる。ポルトガルはすでに15世紀初頭から,王室の主導下にアフリカ西海岸への探検航海に着手し、1488年にはバーソロミュー=ディアスがアフリカ最南端の喜望峰に到達、そして,1498年にはヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を経由してインド東岸のカリカットに到達した。これが、海路による西洋人の最初の東洋進出である。インドのゴアに拠点を築いたポルトガルは中国にまで足をのばし、1557年にはマカオに定住する許可を得る。1549年にはフランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えるが、彼もゴアのイエズス会修道院から派遣されたポルトガル人のイエズス会司祭だった。ポルトガルの宣教師たちは、西洋人として最も早く茶を味わい、またそれを本国に知らせた最初の人たちだった。フランシスコ・ザビエルの夢見た中国宣教に苦労のすえ成功したイタリア人のイエズス会司祭マテオ・リッチ【1552―1610】は中国と日本の茶の違いについてもこう書いている。
「この飲み物はいつも、熱いうちに飲んだり、むしろすするのである。独特のやわらかな苦味があるが、風味は悪いものではない。むしろ逆に、始終飲んでいると、大変からだに良い。・・・日本の茶はまた中国のそれとは異なっていて、日本人は茶の葉を粉にしてしまい、お湯の入ったコップに、その粉をスプーンで二、三杯入れ、よくかき混ぜてその一服を飲む。ところが中国人は、茶の葉をお湯の入ったポットに入れ、熱いうちにそれを飲み、茶の葉を残しておく。」
このようにして、東洋の茶に関する情報は主として16世紀の宣教師たちによってヨーロッパに伝えられた。しかし、イタリアでも、その後に茶を手にしたポルトガルでも彼らの主な関心は香辛料などにあったので、茶についての関心は薄く、主たる交易品にはならなかった。実際に茶を買い付け、普及させたのは後続のオランダ人たちだった。
オランダは1602年に東インド会社を設立し、1609年、日本の平戸に商館を開く。そして、1610年にオランダ東インド会社の船が、平戸から日本の緑茶を持ち帰り、これがオランダでの流行の端緒になったとされている。オランダのハーグでは、貴族や富裕階級の人びとが、珍しい東洋の茶道具や茶碗に関心を寄せ、オランダの食文化にはない独特の茶の入れ方や飲み方の作法を東洋趣味として楽しんだ。また茶の値段は非常に高く、金銀にも匹敵する高価な品であったため、うやうやしくふるまわれた。このような茶を出すもてなしの場は権威をあらわす場であったため、茶の中にジャワから運ばれた貴重な砂糖も入れ、これに高価な輸入香辛料のサフランも添えて、中国や日本にはない飲み方もするようになった。こうして茶の人気は高まり、1690年にはオランダはジャワに茶園を開き、中国よりも近くから容易に茶を本国に持ち込めるようにした。その結果、庶民にも茶が広まり、ヨーロッパで最初の「茶が広く飲まれる国」となる。
ラムージオ(右)とマテオ・リッチ(左)
オランダ東インド会社のロゴ
オルデンバルネフェルト オランダ東インド会社を発足
平戸オランダ商館倉庫(復元)
平戸オランダ商館は、1609年に江戸幕府から貿易を許可された東インド会社が、平戸城主松浦隆信公の導きによって平戸に設置した、東アジアにおける貿易拠点
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