「渋沢栄一の見た19世紀後半のパリ」8 「パリの美化」③

 パリは1860年1月1日をもって、周辺の11の市町村を合併し、市域を2倍以上に拡大して、行政区分も12区制から20区制に変更した(これは現在も同じ)。アメニティの設備のまったくない市域外の市町村が合併されたことは、必然的にオスマンに改造計画の変更を強いることになる。すなわち、新市街と旧市街を結ぶ通りや新市街相互を結ぶ環状大通りの敷設、畑は多くても公園のなかった地域への公園の建設などである。そこで、ナポレオン3世とオスマンの心に、第二次改造計画に続く第三次改造計画が浮上することになる。

 その中心となったのは、ビュット・ショーモン公園(19区)とモンスリ公園(14区)である。ビュット・ショーモン公園は、新市域の東北部モンフォーコン(19区)に建設されたイギリス式庭園。モンフォーコンの丘は中世から刑場として使われ、聖バルテルミーの虐殺で殺害されたプロテスタントの死骸がここに放置されたことなどで有名である。1623年には閉鎖されたが、その後、この丘は石膏を切り出す採石場として使われ、いたるところに穴が掘られることになる。18世紀には、採石場跡の穴は屎尿処理場となり、パリ市から集められた屎尿がこの穴にためられた。そしてこのモンフォーコンの屎尿処理場は、隣り合う廃馬処理場とともに、パリの悪臭スポットとして悪名をはせることになる。屎尿処理場と廃馬処理場は、住民の苦情で、七月王政期に郊外のボンディに移転されたが、跡地は、決められぬまま放置されていた。

 オスマンは、ここに、パリ東北部の民衆の憩いの場となるような壮麗な公園をつくろうと決意し、アルファンに造園を任せた。アルファンはこの期待によく応え、ビュット(丘)という地形の起伏を生かして、独特の興趣に富む公園をつくりあげた。ちなみに渋沢栄一も、1868年9月20日にこの公園を見学し、民衆的地域に公園をつくったナポレオン3世の意図を称賛している。

 いっぽう、モンスリ公園は新市域の南端(14区)につくられたパリ最大の典型的なイギリス風庭園。この地域も労働者の多く住む街区で、オスマンは、ビュット・ショーモン公園の左岸版を意図していたが、庭園内を鉄道の線路が二本も走っていたこともあり、造園は思うにまかせず、ビュット・ショーモン公園のような人気を集めることはできなかった。

 また、1858年のイタリア人愛国者オルシニによるナポレオン3世暗殺未遂事件をきっかけに新しいオペラ座建設が決まる。というのは、この事件はナポレオン3世がオペラ座に向かう途中で爆弾を投げつけられて起こったもので、今後も、狭くて警備のしにくいルペルティエ通りにオペラ座がある限り、同じような事件が起きるだろうと予想されたので、よりアクセスのよい場所にオペラ座を建設するしかないという意見が強くなったからである。シャルル・ガルニエ設計になるオペラ座は1862年に着工され、1867年のパリ万博に間に合わせようとして突貫工事が続いたが、地下に巨大な採石場跡が見つかり、そこに地下水が流れ込んだりしたため、遅れに遅れて1877年にようやく完成した。

 以上、三次に渡るオスマンのパリ大改造によって、パリの姿はたしかに一変した。「明るくて清潔な都市」の出現は、ブルジョワ社会の繁栄をそのまま象徴している。同時にそれは、都市下層民という「危険な階級」を市民的秩序に包摂しようとするものであった。しかし為政者たちの思惑とは別に、この統合の空間はまた、容易に新たな断絶の空間に変貌した。大胆な住空間の改造は、それまでの近隣共同体を解体し社会関係の再編を迫らずにはおかない。たとえば、区画整理で市中心部を追われた庶民は、投機のために家賃が高くなったもとの下町に戻れず、市周辺の新開地に移り住むことになった。このため、それまでブルジョワと労働者が混じりあって住んでいたパリで、しだいに「住み分け」が明確になってくる。つまり、中心部から西部を占めるブルジョワ街を、東部から東北に環状に伸びる労働者街が取り囲む、いわゆる「赤い帯」ができあがる。この「二つのパリ」の形成による都市住民の一体性の喪失は、あらたな断絶の構図を作り出した。

ビュット・ショーモン公園 建設作業 

ビュット・ショーモン公園 完成当時

ビュット・ショーモン公園 現在


モンス―リ公園  1853–70

モンス―リ公園 現在の地図

モンス―リ公園  現在

オペラ座(ガルニエ宮) ファサード

シャルル・ガルニエ

オペラ座(ガルニエ宮)基礎工事(1862年5月20日) 

 予想以上の地下水の処理に悩まされた。結果「オペラ座は地下湖の上に建設された」という伝説がうまれた。

建設中のオペラ座 1864年

オペラ座(ガルニエ宮) 観客席

オペラ座(ガルニエ宮) 大休憩室

オペラ座(ガルニエ宮) 大階段

ルイ・ベロー「オペラ座の大階段」1877年 カルナヴァレ美術館

エドゥアール・デタイユ「パリ・オペラ座の落成」1878年 ヴェルサイユ宮殿 

 落成式は1875年1月5日

オペラ広場 1870年  まだオペラ大通りはできていない

ピサロ「オペラ大通り」1898年 ランス美術館

オペラ大通り 現在

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