「江戸の寺子屋と教育」5 寺子屋の「秩序」(1)罰

 稽古(授業)中でもおおらかそのものだったのだから、放課後はさらにエスカレート。師匠を驚かしたり、いたずらしたりする子どももいたようだ。『画本弄』(ゑほんもてあそび)には、師匠が席を外したときの暴れ放題の寺子たちとあきれ顔でそれを見る師匠の姿が描かれている。

 もちろん手習い稽古中は「無言・不食」が決まりであり、師匠から一喝されても改めなければ罰を受けた。絵でよく目にするのは「捧満(ほうまん)」。水がいっぱいの茶碗と線香を持たせて、立たせたり机の上に正座させたりした。線香は時間を計るためのもので、一本燃え尽きるのに40~50分間は茶碗の水を一滴もこぼさずに正座または直立を続けなくてはならない。川柳を二句。

「手習子机へ乗るが重いとが」 

「御赦免に机を下りる黒ん坊」

「捧満」はかなり重い罰で、他にも「食止(じきどめ)」(昼食抜き)、「鞭撻(べんたつ)」(ムチ叩き)、「留置(とめおき)」(居残り学習)、「謹慎」(しばらく登校禁止)などがあった。ただし、寺子屋には、体罰によって子どもに文字の読み書きを覚えさせようとする学習観はなかった。文字の読み書き能力は、それ自体が学習の目的ではなく、それによってのみ可能な道徳的な自己の確立にこそ目的が置かれていたからである。山本精義『庭訓要語』(天明6年【1786】)にこうある。

「一 学問するに、道をしらむ事を以て、心に善を行ひ、人を愛し、たすくるを以て事とすべし。これ学問の要とする所、本を務むるなり。もし才学のみに心を用ひ、みづから誇り、人を侮る者は、読まざるときより心ざまあしく、人にもそしり笑るるなり。慎むべし。・・・

 二 ・・・善を行はざれば学問も無用の事なり。善を行ふ人は善人なり。其の至りは君子となる故に、学問の道は常に善を行ひて、君子にいたるを以てめあてとす。」

このような儒教的な学習観は、社会にとって有用な知識や技能を習得することを目的とした営みと考えられていた西洋社会における学習観と対照的な性格を持つものであった。だから、幕末を訪れた西洋人には驚きに映ったのだ。

「日本人の性格として、子供の無邪気な行為に対しては寛大すぎるほど寛大で、手で打つことなどとてもできることではないくらいである」(ファン・オーフェルメール・フィッセル『日本風俗備考』平凡社東洋文庫 フィッセルは文政年間,長崎,出島のオランダ商館に9年間勤務した書記)

「注目すべきことに、この国ではどこでも子供をむち打つことはほとんどない。子供に対する禁止や不平の言葉は滅多に聞かれないし、家庭でも船でも子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった」(C.P.ツュンベリー 著『江戸参府随行記』平凡社東洋文庫 スウェーデン人医師・植物学者による1775年(安永4)から翌年にかけての日本紀行)

 寺子にとって何より辛い罰は「破門」。

「師匠への讒言(ざんげん 事実を言わずに嘘をつく)机背負(しょわ)せられ」

「二度と来るな」と言って、入門時に親から用意してもらった天神机を背負って自宅に帰らされる。しかしたいていは、親が子供を連れて手習師匠の家に謝りに行き、子供と一緒に誤って許してもらった。「あやまり役」という習慣もあったようだ。

「寺子屋で師匠から罰を受けた場合、師匠の妻、寺子屋の近所の老人(泣き声など聞きつけてやってくるという)、子どもの家の近くの人、親自身、子どもの友達が、本人に代わって・・・謝ることによってようやく許されるという謝罪法が一般化していたことは、非常に面白いことではなかろうか。」(江森一郎『体罰の社会史』1989年)

「興手習出精双六」 (左)「捧満」(右)「破門」

広重「師匠を驚かす寺子」

『莟花江戸子数語録』師匠を驚かす子ども

『画本弄』安永9年(1780) 

「諸芸稽古図会」いたずらの罰

「諸芸稽古図会」いたずらの罰 「捧満(ほうまん)」 

寺子屋の図 ここにも「捧満」が描かれている

鍬形蕙斎「近世職人尽絵詞」寺子屋 文化元年(1804)

 怖そうな師匠だが、寺子たちは好き放題し放題

「諸芸稽古図会」いたずらの罰

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