「江戸の寺子屋と教育」4 寺子屋の「自由」
寺子屋は、鎌倉、室町時代にお寺で読み書き算盤を教えたことからその名が生まれ、江戸時代には幕府の統制を受けることがない庶民の教育機関として定着した。そして寺子屋が庶民の自発的な教育機関とされるのは、師匠も子供も教育もすべて自由意思による運営だったからである。師匠の大半は、武士、僧侶、神官、医者などで、女性の師匠も多く、近所の人から頼まれて師匠となるケースが多かった。教室は、師匠の自宅が利用され、毎朝子供たちは自分で机を持ち出して並べていた。しかし、特徴的なのは、現在のように先生に向かって並べられるわけではなく、机はばらばらの方向を向いていたことである。教師が子供と正対しないのが普通だった。
通っている子供たちの年齢も8歳から、13,4歳までと幅があり、入学と卒業の年齢は特に定まっていない。硯、筆、紙、「往来」と呼ばれる教科書など、勉強道具はすべて寺子屋に預けてあった。また、授業では一斉にひとつの教科が教えられるのではなく、子供たちはそれぞれ課題が与えられ、それを教えると師匠から手直しされて、また次の課題に進んだ。子供一人ひとりの学力に合わせた指導が行われていたのである。朝は7時半ごろから始まり、昼食は自宅でとり、午後は農作業などで家業が忙しくないかぎり勉強を続け、一日の勉強時間は7時間から8時間にも及んだという。
以上が寺子屋の大まかな全体像だ。教員免許状も持たず、教員採用試験をくぐり抜けて教壇に立つわけでもない師匠が、学校教育法にも学習指導要領にも教育委員会にも縛られることのない寺子屋で、教科書検定制度にしばられないで自由に選んだ教科書で行う寺小屋教育の特徴は一言で表現するなら「自由」。しかし「自由」には「無秩序」がつきまとう。現在の学校とは規模が違うとはいえ、育ち盛りの子供たちの集団がこのような「自由」な場で、「無秩序」に陥らなかったのだろうかという疑問は当然生じる。そして多くの絵画資料は、おおらか、というよりカオス、「学級崩壊」に近い状況を描いている。
例えば、弘化(1844~1847)頃の一寸子花里「文学ばんだいの宝 末の巻」。女師匠が教える、寺子も女子ばかりの寺子屋の様子が描かれている。詞書は「きりようりつぱ(器量立派)なる人がらにして、なりをかざりても筆とる事知らぬははづかしき、見にくきものなり。」と文字学習の重要性を説いているが、一生懸命手習いをしているのは、師匠の前の二人の子と助手の手助けで「いろは」を書いている子だけ。それ以外は、人形遊びをしてる子もいれば、ままごとをしている子もいる。助手の鼻にいたずらしてる子までいる。一方、師匠はそんな子供たちを前にして、怒った様子も動じる気配もまるで感じられない。
これと対になっている「文学万代の宝 始の巻」を見ると、男師匠の場合でも状況に変わりはない。やはり詞書には「世の中の諸芸、いづれも其道に妙あり。そが中に文学・筆道は、高きもひくきも、しらではかなはぬ芸にして、たとへば、人つて、ことつての及ぬ所、或は内用、外聞をいとふ事を、居ながら我おもふやうをのべ、一筆一紙にしたため、日本はさらなり、唐土(もろこし)、天竺、万里のほか迄も、美名をあげるも、文筆道の尊き徳なり。」とあるが、おおらかすぎる子どもたちの様子は女師匠の場合と変わらない。寺子屋を描いた絵画の中でもっとも有名なもののひとつ渡辺崋山『一掃百態』「寺子屋図」も同様だ。
では外国人の眼にはどう映ったのか?スイスの使節団代表として日本を訪れたエメ・アンベールは帰国後、約10ヶ月間の滞日経験をまとめて1870年に『幕末日本図絵』( Le Japon Illustré) として発表したが、そのなかで寺子屋について「本来の学課としては、唄を合唱し″いろは″を大声をあげて唱え、本を朗読しアルファベット[いろは]を墨と筆とで書き、やがて語を綴り、文章を書くのである」と記述し、当時の寺子屋の様子を絵にした。そこでは、武家の正装である裃を着て端座する師匠を取り巻く子どもたちは、ごく一部の例外を除き、まったく勉強しようとする様子がない。師匠の厳粛な態度とあまりに自由に振る舞う子供たちとのコントラストが印象的なのは前述の絵画と変わりない。
一寸子花里「文学万代の宝 末の巻」
一寸子花里「文学万代の宝 始の巻」
渡辺崋山「一掃百態図」
アンベール「幕末日本図絵」寺子屋
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