「江戸の寺子屋と教育」6 寺子屋の「秩序」(2)「試験」

 おおらかな寺子屋教育の中にも学びを強いる要素はあった。試験に似た「清書(きよがき)」、「浚(さらい)」、「席書(せきがき)」である。これらはいずれも手習いの上達をみることに重点が置かれており、現代的な試験とはかなり性格を異にしているが、寺子屋において子どもに学びの動機づけをする制度として存在していた点に現代の試験との共通性を見出すことができる。

 「清書」は、師匠から与えられた「お手本」を同じように書くこと。仕上げ書きした個々の字は、朱墨で師匠によって採点される。

     「大不出来清書も顔も赤くなり」

 この川柳は、提出した清書が真っ赤であったことを恥じて赤面した子どもの様子を描いたもの。清書もできばえによって、あるいは喜び、あるいは恥ずかしい思いをするという心理的な効果によって学習動機をあげる、現代の試験に類似した小テストであった。評価方法は、「松竹梅」、あるいは「天地人」といった上下関係の不明瞭な符号、「殊外(ことのほか)よろし」といったような評句、「甲乙丙」などといった成績の上下をより明確に示す符号である評語などだったが、点数を採用している寺子屋はほとんどなかった。江戸では6日に一度というかなりの頻度で実施され、成績を教場に掲げる場合もあった。

 「浚」は、現代の「おさらい」にもその性格の一端が残されているが、試験に最も近い性格を持つ。ただし、「清書」との違いや、「大浚」と「小浚」の違いなど、寺子屋の事例によって異なっており、明確に定義することは難しい。『維新前東京市市立小学校教育法及維持法取調書』(明治25年9月 第日本教育会事務所発行)によれば、「小浚」とは、毎月1回行われる暗唱・暗書のことで、「大浚」とは年に1回行われる暗唱・暗書のことである。既習のすべてが出題範囲となり、試験の際には手本を取り上げられたうえで、全文を暗唱して書かなくてはならない。暗書は弟子たちの面前で厳粛な雰囲気で行われ、子供にとって心理的プレッシャーになったようだ。「数日間は生徒一層の奮励をなしたりとは古今その趣における異なるなし」としている。評価方法は、できなかった子を叱責するのではなく、よくできた子を褒賞する手法を用いた。褒賞品として墨筆・清書双紙、幼年者には菓子が与えられ、教場へ姓名を掲げたようである。ただし、褒賞品が授与されるのは江戸の寺子屋の特徴で、他地域では褒賞はすれど褒賞品は授与しないことが多かった。

 「席書」とは、字の如く、公衆の面前に席を設け、その場で文字をしたためる公開性の高いイベント。地域社会への寺子屋のアピールの場であり、公開することによって寺子のやる気を引き出す効果があった。ただし、「席書」の有無は、「浚」以上にさらに地域的な偏差が大きかったようだ。

 「席書」の当日は、門戸・障子を明け放し、あえて通行人が中を覗けるようにした。おおむね午前8時頃に初めて午後2,3時頃にすませる場合が多かったが、なかには10時頃まで続くこともあった。裃を着た師匠が、同様に晴れ着姿の子どもを一人ひとり毛氈を敷いた席に呼び出し、あらかじめ練習してあった文字を書かせた。寺子は、手本を見ずに清書し、成績をつけてもらって壁に貼っていく。では、次の川柳は何を描いているのか。

「席書の文鎮になる母の指」

寺子が揮毫する際に母親がそばについて文鎮代わりに手で押さえていた様子を詠んでいる。「席書」では、父兄や来賓が気軽に参加できる雰囲気があり、招待された来賓が席書の用紙を広げたり、成績のついた作品に寺子の氏名・年齢を書き加えるなどして手伝うこともあったという。

「席書」をを見物する人は多く、それを目当てに露天商が出て、さながら縁日のようなところさえあったという。子どもたちはこの日に、祝儀をおさめ、師匠は赤飯を振る舞い、共に食した。このように江戸における「席書」は、1年でもっとも華やかな行事であった。「席書」は、寺子屋の生徒集めの宣伝の場であり、複数の寺子屋が存在する江戸では、師匠の教養や技量を誇示する場となっていたのである。

「席書」  国芳「幼童席書会」弘化(1844~1847)頃

「席書」

「席書」  『実語教童子教具註鈔』 慶応元年(1865)

「清書」とお手本

西川祐信「手習」

磯田湖竜斎「五常 智」安永頃

国芳「幼童諸芸教草 手習」

歌川芳虎「五色和歌定家卿 赤

草紙へ書く字は最初は薄墨からはじめ、次第に濃くしていきながら何度も繰り返し練習した

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