「江戸の寺子屋と教育」3 読書熱と本屋
ロシア海軍少佐ゴローニンは「日本人はきわめて読書を好む。普通の兵士でさえ、勤務にあたっていつも書物を携えて従事している。」、ペリー提督は「日本では・・・田舎にまで本屋がある」と述べている。さらに、万延元年(1860)から文久元年(1861)まで日本に滞在したプロイセン人オイレンブルクの部下の画家ベルクの著作とされる『オイレンブルク日本遠征記 上・下』にはこう書かれている(抄訳)。
「日本では、本は需要が多いために価格が安く、番所の兵士、子ども・妻・娘たちなど国民諸階層が熱心に読書し、知識欲が高い。百科全書、歴史、自然、学問、芸術、技術についての研究書、手引書は無数にある。書道が国民に広く行き渡り、暇なときはいつも読書し、通りのいたるところに本屋がある。本屋には日本・中国の本だけでなく、地理、民俗、天文、その他自然科学の各部門、医学、戦術、兵書などヨーロッパの本の翻訳も見られる。本屋はいたるところの通りにあり、本は信じられないくらい安く、それでいかに多くの本が読まれているのかもわかる。」
辻達也『江戸時代を考える』(中公新書)には、江戸時代の史料『孝義録』、『続編孝義録料』、『御府内備考』、『忠孝誌』をもとに池上彰彦がまとめた論文が紹介され、江戸時代の庶民の教養が高く、書物に親しんでいたことの例が列挙されている。いくつか紹介する。
寛政3年(1791) さよ 28歳 あんま春養女 家が貧しく武家に奉公し手習い・琴を学ぶ。読書を好み給金の余りで四書五経を求めて読む。暇をとってのち近所の女子に読み書きを教える。
寛政3年 市郎左衛門 34歳 家主 母に貸本などを読んでやる。自分も読書を慰めとする。
寛政8年 いわ 42歳 離婚し豆腐屋を営む。父が好きなので読本などを借りて読んでやる。
享和元年 岩次郎 34歳 彫物師 父に貸本などを読んでやる。
享和2年 又右衛門 父は古い書物を読み、近所の者に教諭する。
文化8年 さの 64歳 住み込み奉公 主人の子供に仮名の手本を書いて読み習わせ、本を読んで聞かせる。
このような庶民の読書熱の背後にどのような出版事情があったのか?江戸時代前期の1624~44年頃、木版印刷が普及すると商業出版が本格的にスタートし、本が一気に身近になる。当初、出版業界の中心は京であり、出版物も仏書や歴史書など硬派なものばかりだったが、絢爛な文化が花開いた元禄期(1688~1704年)になると、大坂で井原西鶴の『好色一代男』が大ヒット。娯楽作品のヒットは出版革命を起こした。さらに江戸時代中期になると江戸でも出版業が本格化。娯楽小説をはじめ実用書、ハウツー本、教育本、ガイドブックなど次々に新しいジャンルが開拓され、様々なベストセラーが生まれた。出版業界の盛況により本屋も増加、本はさらに身近になります。
本といっても黄表紙や洒落本は、半紙半裁型の小さな判型で、二つ折にして綴じるから半紙四つ切大の小型本である。これらの絵入り短篇の小説類は、錦絵などと同じく絵草紙屋で比較的安価に買うことができたが、文化初年(十九世紀初め)頃から盛んとなる「合巻」(黄表紙が長篇化して数冊で合冊したもの)や「読本」(複雑な筋書の長篇読み物。曲亭馬琴『南総里見八犬伝』、上田秋成『雨月物語』等)など大部な本は、値段も高価。葛飾北斎の『富嶽百景』(全三冊)とか『北斎漫画』(全十五編十五冊)などの、充実した絵本なども同様だった。それら購入はできないが読みたい、見たいと思う本は、どうしたら良いかといえば、安直な貸本屋(文化年間【1804~18】の江戸に656軒、天保年間【1830~44】には800軒に及んだという報告もある)を利用すれば良かった。彼らは、新旧の本を仕入れて大きな風呂敷にそれらを包み、一軒一軒御用を聞いて貸し歩いたのである。読者の方は、わずかな損料(借り代)を払って多くの本を楽しむことができたので、重宝されたもののようである。
蔦屋重三郎は歌麿の〈美人大首絵〉売り出し、謎の絵師・写楽をプロデュースした
歌麿「高名美人六家選 難波屋おきた
東洲斎写楽「二世大谷鬼次の奴江戸兵衛」
『江戸名所図会』 「錦絵」
日本橋通油町にあった本問屋「鶴喜」(鶴屋喜右衛門)の店頭風景
国貞「今様見立士農工商」
下谷新黒門町の地本問屋の魚屋栄吉の店頭風景。広重『名所度百景』は1856年(安政3)から1858年まで、この店より刊行された。
落合芳幾「江戸土産之内 絵さうし見世」
浅草蔵前の絵草子店(本屋)「森本」の店頭の様子
『画本東都遊』より「絵草紙店」 葛飾北斎画
蔦屋重三郎「耕書堂」の店頭風景
奥村政信 貸本屋
西村重長「初代山下金作の貸本屋」
十返舎一九 「倡客竅学問」(しょうかくあながくもん)
風呂敷に包んだ本を顧客の遊女に見せる貸本屋
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