「江戸の寺子屋と教育」2 来日外国人の記録

 19世紀の日本の教育は、当時来日した外国人の眼にはどのように映ったのだろう。まず、ロシア海軍少佐ヴァシリー・ミハイロヴィッチ・ゴローニン【1776―1831】。ロシアの軍艦ディアナ号艦長として1811年に千島列島を測量中に、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され抑留され、約2年3か月間、日本に抑留された(ゴローニン事件)。帰国後の1816年、ロシアで『日本幽囚記』を出版したが、そのなかにこういう一節がある。

「日本の国民教育については、全体として一国民を他国民と比較すれば、日本人は天下を通じても最も教育の進んだ国民である。日本には読み書きできない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もいない」

「だから国民全体を採るならば、日本人はヨーロッパの下層階級よりも物事に関しすぐれた理解をもっているのである」

「日本人はきわめて読書を好む。普通の兵士でさえ、勤務にあたっていつも書物を携えて従事している。」

 ヨハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール・フィッセル【1800―1848】は、オランダ商館員として文政3年(1820)から文政12年(1829)まで9年の長きにわたり日本に滞在した。文政5年(1822)には商館長コック・ブロンホフの江戸参府に随行している。出島での生活、日本人との交流、江戸への旅を通して、フィッセルはその観察眼を日本の幅広い分野に向け、多くの見聞、資料を得た。オランダ帰国後、彼はそれらをもとに執筆を進め、日本滞在の成果として1833年に『日本風俗備考』を刊行した。彼は江戸時代が文字社会、文書社会であることを的確に観察して次のように述べている。

「私には日本人ほど好んでペンや筆を振るう国民があるとは信じられない。彼らはあらゆることを文書にして取り扱う。また一般的にきわめて広い範囲にわたって手紙のやりとりを続けているので、婦人ばかりか男子も、このために時間の大半を費やしている有様である。」

嘉永3年(1853年)に日本を訪れたペリー提督【1794―1858】は日本人の識字率の高さに驚嘆して『日本遠征記』にこう書いている。

「日本では読み書きが普及し、見聞を得ることに熱心で、田舎にまで本屋がある」

 また万延元年(1860年)に通商条約締結に訪れたラインホルト・ヴェルナー【1825―1909】(プロイセン海軍エルベ号艦長)も、その航海記『エルベ号艦長幕末記』でその驚きを記している。

「民衆の学校教育は中国よりも普及し、召使い女が互いに親しい友に手紙を書くために余暇を使い、ボロを纏った肉体労働者でさえ読み書きができる。」

 文久元年(1861年)に来日したロシア正教会の宣教師で日本正教会の創建者でもあるニコライ【1836―1912】(本名はイヴァーン・ドミートリエヴィチ・カサートキン)は、帰国後に雑誌『ロシア報知』に、日本滞在8年間の印象を記した中でこう述べている(ニコライ『ニコライの見た幕末日本』)。

「国民の全階層にほとんど同程度にむらなく教育が行き渡っている。この国では孔子が学問知識のアルファオメガ(ΑΩ)であるということになっている。だが、その孔子は学問のある日本人は一字一句まで暗記しているものなのであり、最も身分の低い庶民でさえ、かなりよく知っているのである。(中略)どんな辺鄙な寒村へ行っても、頼朝、義経、楠正成等々の歴史上の人物を知らなかったり、江戸や都その他の主だった土地が自分の村の北の方角にあるのか西の方角にあるのか知らないような、それほどの無知な者に出会うことはない。(中略)読み書きができて本を読む人間の数においては、日本はヨーロッパ西部諸国のどの国にもひけをとらない。日本人は文字を習うに真に熱心である」

 このように、江戸後期から幕末期に来日した外国人の記録は、鼓腸や誤解も見られるが、全体を通して当時の日本の教育が発達していたことを、驚きと敬意をもって素直に記している。当時の日本の教育は来日外国人を驚かすに十分な水準に達していた。

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