「江戸の寺子屋と教育」1 19世紀の教育熱の背景
文化6年(1809年)から文化10年(1813年)にかけて刊行された滑稽本『浮世風呂』(式亭三馬)に、、小娘がこんなおしゃべりをする場面がある。
「朝むつくり起きると手習(てなれへ)のお師(し)さんへ行ってお座を出して来て、夫(それ)から三味線のお師さんの所(とこ)へ朝稽古にまゐつてね、内へ帰つて朝飯(まんま)をたべて踊の稽古からお手習へ廻つて、お八ツに下ツてから湯へ行て参ると、直にお琴の御師匠(おつしやう)さんへ行て、夫から帰つて三味線や踊のおさらひさ」
文化7年(1810)に89歳で没した幕臣の柴村盛方(もりみち)の随筆『飛鳥川』には、かつては手習の町師匠は少なかったが、最近は一つの町に2~3人ずつおり、子どもへの教え方が上手なのか、幼い子どもが上手に字を書いていること、また夫を失った女性が手習所の指南(師匠)をすることが多いなどと記されている。
19世紀に入ると教育熱は一気に高まり、寺子屋(手習所)は全国に誕生した。寺子屋は私立でお上の許認可はいらないし、お上も直接関知しない。寺子屋は読み書きに自信があれば身分に関係もなく誰もが開業できた。この民間の自由さが全体像をつかむことを難しくしている。明治16年(1883年)文部省が府県に命じて行った調査報告をまとめた『日本教育史資料』によれば、寺子屋の総数は1万1237となるが、調査漏れが数多あり、実態はこの数倍になるようだ(大石学『江戸の教育力』には「実際には約7万5000の手習所と約6500の私塾が存在したともいわれる」と書かれている)。文部科学統計要覧によれば、平成29年度(2017)の全国の小中学校は3万420校(小学校:2万95校、中学校:1万325校)。江戸時代の学校は、規模は別として、これをはるかに超える数で展開していたようだ。
1603年江戸幕府を開いた 徳川家康の天下統一によって、戦国時代の長い戦乱は終わる。そして徳川の平和を待っていたかのように町づくり、村づくり、家づくりが行われた。寺子屋を庶民教育のシンボルに押し上げたのは「家」の広範な成立である。江戸時代の支配も経済も庶民の家なくしては成り立たない。また家あっての町や村でもある。太平の御代を満喫した18世紀頃から家の祭祀や相続に庶民の関心が集まるようになった。とりわけ、家の相続は死活問題であった。わが子をいかに育て家を継がせるかが親にとって頭の痛い悩みとなった。
時代も一変していた。徳川の支配は、北は蝦夷地から南は薩摩に至るまで「御家流」の書体で統一された文書を使って行われた。「御家流」とは何か。中国【隋・唐】から伝来した楷書・行書・草書とは異なった日本固有の書体「和様体」のひとつ「青蓮院流」のことで、江戸時代になると「御家流」と呼ばれて、調和のとれた実用の書として広く一般大衆に定着する。徳川幕府は早くから幕府制定の公用書体とし、高札、公文書にもちいるように定めた。さらに寺子屋の手本としても多く採用されたことで大衆化して、またたく間に全国に浸透した。幕府の「御触れ」はもとより百姓町人の「届書」(とどけしょ)、「願書」(ねがいがき)など公文書はすべてこの「御家流」で書かれた。年貢の取り立ては厳密な計算に基づいた「年貢割付状」(ねんぐわりつけじょう。江戸幕府や諸藩の代官などの領主権力が領有する村単位に年貢を割り付けた徴税令書で、村単位に出された)が出され、領収書の「年貢皆済目録」(ねんぐかいさいもくろく。年貢は村の責任で領主に納入した【村請制】が、村がその年の年貢を上納し終わった祭に,領主がその皆済の確認,受取の証として,村あてに発行)が発行された。読み書き算用ができないと騙されかねない。
また天下泰平の御世は国内経済の飛躍的発展をもたらす。江戸・大坂・京都の三都の中枢に城下町、門前町、在郷町等の地方都市が連携し、これに何万という村が一体化する一大市場をつくり上げた。村や家は自給自足ではやっていけない。田畑を売るにも買うにも、金銭の貸借にも証文が幅を利かせる。金がものを言う社会となった。文書による契約が社会の基本原則となったのである。読み書き算用を習得しなければ大変な不利益を蒙ることになる。以上が19世紀に入って一気に高まった教育熱の背景である。
豊原国周「東京府日本橋御高札賑」
三代目広重「東京三十六景 日本橋御高札」
天保5年(1834)吾妻郡吹路村の年貢割付状
享保8年(1723)勢多郡生越村の年貢皆済目録
『浮世風呂』挿絵 女湯
『浮世風呂』挿絵 姦(かしま)しい女湯
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