「ゴッホ、日本、キリスト教」4 ゴッホの「日本」(4)「ひまわり」
アルルでゴッホは「日本人」のように、芸術家が兄弟愛に満ちた共同生活をする家を作り上げる夢を実現しようとする。ゴッホがこのような日本人画家のイメージをどこで読んだのかは明確ではない。そもそも、日本人画家たちがつねに兄弟愛に満ちた生活をし、貧しい労働者だったというような事実はなく、ここでもゴッホは自分の理想の一つを日本人に投影したということだろう。事実、「黄色い家」や「日本」に夢中になるずっと以前から、ゴッホは芸術家共同体の理想を抱いていた。すでに1882年頃の手紙で、彼は次のように記している。
「人々が、ひとりの人間には大きすぎる何かに共同で取り組もうと真剣に協力し合うときにのみ(たとえばエルクマン・シャトリアンの共同執筆や『グラフィック』誌のデッサン家たちのように)、それは素晴らしいものになる」
「かつて、一群の画家、文筆家、つまり芸術家たちが、その多様性にもかかわらず、ある種の統一性を持ち、ひとつの力となっていたことがあった。・・・ぼくが言っているのはコロー、ミレー、ドービニー、ジャック、ブルトンらが若かったころ、オランダならイスラエルス、マウフェ、マリスたちの時代のことだ。」
ゴッホは、アルルの北寄り、鉄道駅に近いラマルティーヌ広場に面した「黄色い家」(その名の通り外壁は黄色、鎧戸は緑というやや派手な外観の建物)を借りて住む。この「黄色い家」に画家の友人たちを呼び、そこで芸術家のユートピアをつくろうとした。椅子を13脚購入し、室内をひまわりなどの絵で飾り、画家仲間をアルルに誘った。
そんなに多くの友人が移り住むという予定もなかったのに、なぜゴッホは13脚もの椅子を購入したのか。キリストと12使徒を意識したのだろうか。少なくともゴッホは芸術家共同体のモデルとして修道僧たちの修道院生活を想定していた。1888年10月のテオ宛の手紙にこう書いている。
「人は、画家だと聞くと、狂人か金持ちかのどちらかだと思うだろう。1杯のミルクは1フランもし、2枚のバター付きパンは2フランになるが、絵は売れない。だからこそ昔の修道士のように、オランダの荒地のモラヴィア修道団のように共同生活をしなければならないのだ」
また別のテオ宛の手紙では「もし君も来ることになれば、君は歴史上最初の〈画商・使徒〉になる」とまで書いている。では、「黄色い家」を「ひまわり」で装飾しようとした理由は何か?それは、「ひまわり」が芸術家共同体の象徴として最もふさわしい花だったからだ。ひまわりは西洋の図像伝統の中で明確な象徴的意味を担っていた花である。実際のひまわりは太陽に顔を向け続けるわけではないが、人はこの花に向日性があるとみなし、太陽を神やキリストにたとえ、ひまわりを「信仰心」や「愛」の象徴としてきた。そしてゴッホの「黄色い家」は南仏の太陽を崇拝する画家たちが集まり、兄弟愛に満ちた共同生活を送る、疑似宗教的な共同体だった。このような性格を与えられていた「黄色い家」に、「信仰心」と「愛」の象徴であるひまわりほどふさわしい花はない。
ところで、ゴッホは「ひまわりの画家」と呼ばれ、ひまわりは「ゴッホの花」、ゴッホの代名詞にもなっているが、実は彼はそんなにたくさんのひまわりの絵を描いたわけではない。描いていた時期も非常に限られていて、画中に小さく描かれている者を含めても、パリ時代後半の1年とアルル時代前半の1年弱、つまり1887年春頃から89年の1月までの2年間に、ほとんどすべてのひまわりは描かれている。パリ時代にこのモチーフが描かれ始めたのはゴッホが南仏の太陽にあこがれ始めた時期と重なっている。しかし、ゴッホがひまわりに惹かれたのはその色だけが理由ではなかった。「信仰心」や「愛」の象徴としてだった。だからこそ、ゴーガンとの「耳切り事件」(1888年12月23日)で芸術家共同体が崩壊した直後こそ何点かのレプリカが制作されるが、その後にはひまわりを主要モチーフとした作品は描かれていない。
1887ゴッホ「ひまわり」ベルン美術館 パリ時代
1888ゴッホ「ひまわり」ミュンヘン・ノイエピナコテーク
1888ゴッホ「ひまわり」ロンドン・ナショナルギャラリー
1888ゴッホ「黄色い家」ゴッホ美術館
1888ゴッホ「アルルの寝室」ゴッホ美術館
1889年「自画像」ワシントン・ナショナル・ギャラリー
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