「ナポレオンを育てた母と妻」8 結婚
ナポレオンの結婚相手、年上で二人の子持ちの未亡人ジョゼフィーヌは、文字通り「ふしだらな生活に明け暮れてきた女」だった、その真の姿をレティツィアが知ったら、卒倒しかねないほどの。ナポレオンを王党派の鎮圧に担ぎ出した総裁バラスの愛人だったし、彼が結婚を認めたのも結婚後も関係を続けられると考えてのこと。結婚を申し込むナポレオンにジョゼフィーヌがなかなかいい返事をしないかったのも、ナポレオンには、彼女の気に入るものは何ひとつなかったからだ。美男でもない。たくましい体をしているわけでもない。軍服を見事に着こなした、格好のいい軍人というわけでもない。「やせた小男」。何か面白いことを言って笑わせてくれるわけでもないし、財産があるわけでもない。しかし、ジョゼフィーヌの境遇はいかにも不安定。年齢ももう32歳。当時の独身女性にとってほとんど絶望的な年齢。二人の子ども。増え続ける借金。国内軍司令官に任ぜられ、中将に昇進したナポレオンを夫に迎え、生活を安定させるのも悪い話ではない。結局、ジョゼフィーヌはナポレオンの求婚を受け容れる。友人あての手紙でその心境をこう語っている。
「『彼を愛しているの』とあなたはお尋ねになるでしょう。いいえ、愛してはおりません。『それでは、彼が嫌いなのですか』—―いいえ、嫌いではありません。私はぬるま湯のような状態にあり、こうした状態は私も好きではありません。・・・・彼がエネルギッシュに語る力強い情熱は私の気に入っているものですし、彼の口ぶりからすると誠実さを疑うことはできません。この力強い情熱こそが、私が結婚に同意した理由なのです」
1796年3月9日、ジョゼフィーヌはナポレオンと結婚式を挙げる。場所は、パリ区役所。立会人は、ジョゼフィーヌの愛人バラスと、ジョゼフィーヌの友人テレジアの夫タリアン。ナポレオンが2時間遅刻したため、しびれを切らして帰ってしまった区長に代わって、何の権限もない一介の役人コラン・ラコンブによって執り行われた式は5分で終わった。区長代理がきまり文句の誓いの言葉を新郎と新婦に復唱させただけ。フランス革命勃発後、キリスト教は迷信として攻撃され、教会での結婚式はなくなっていた。
結婚式からわずか二日後、新郎ナポレオンはジョゼフィーヌの元愛人バラスから結婚祝いとして授かったイタリア方面軍最高司令官(3月2日に任命されていた)として旅立つ。3月20日、ナポレオンはマルセイユに住む母のもとに立ち寄る。レティツィアはすでにジョゼフィーヌから手紙を受け取っていた(ただしナポレオンの口述で書かれた)が、ナポレオンに冷ややかに非難を表明する。初めは恐縮していたナポレオンだが、次第に横柄な態度をとり始める。自分は、何事であれ、妻について人がとやかく言うのは許さないだろう、ジョゼフィーヌには疑わしい所など何もない(本当は大ありなのだが)、と。レティツィアは、息子が《家長》だということを思い起こさせられるそうした口調に、口を閉ざしたが、頭は下げなかった。彼女はこのようなことでの自分の正当な権利については譲らなかった。そしてこれ以後もそうした姿勢は示し続けてゆく。
少々後味の悪かったナポレオンは、最後に、母に彼の口述で(またしても!)ジョゼフィーヌに返事を書くように求めた。翌日、一切は片付いたと信じて、ナポレオンは母親のもとを去り、イタリアへ向かった(第一次イタリア遠征)。しかし、レティツィアのほうは、そうそう早くは気持ちの整理がつかない。手紙は、書くことは書いたが、なかなか出す決心がつかない。そこにはこう書かれていた。
「お手紙拝見しました。あなたはどういうお方なのでしょう?息子はすばらしい結婚だと申しました。ですから、すぐに、喜んで賛成いたしました。いまはいつあなたにお会いできるかと、そのような幸せを待ち望んでおります。母としてあなたを心から愛し、子どもたちと同じようにいとしく思っております、お心安らかになさってください。」
こんな歯の浮くような内容の手紙では、ようやく送ったのが4月1日だったというのもわかる気がする。
ジュゼッペ・ロンギ「ナポレオン」1795年
ルイ・ラフィット「ボナパルト将軍 1796年」
「美しきジョゼフィーヌ
パリ2区市庁舎でのナポレオンとジョゼフィーヌの結婚
(現在) パリ二区市庁舎
(現在) パリ2区市庁舎のウェディングルーム
ポール・バラス
ジェームズ・ギルレイ(イギリス) 1805年頃 カリカチュア
「1797年冬、バラスの前でヌードショーを繰り広げるタリアン夫人テレーズ・カバリュスとジョゼフィーヌ、それを覗き込むナポレオン」
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