「ナポレオンを育てた母と妻」7 「テルミドール9日のクーデター」

 トゥーロンに大尉として入ったナポレオンは、そこを出るときはもう将軍になっていた。この時ナポレオン24歳。任務でアンティーヴに迎えられたナポレオンは、母親に移ってくるように伝える。彼女のために、彼は城館を一つ借りた。シャトー・サレといって、亜熱帯性の緑にとりまかれ、陽光に白く輝く大きな南仏特有の別荘の一つだった。若い将軍の俸給は1万5000リーヴル。しかし、レティツィアの頭が狂わされることはない。召使いたちにも少しも頼ることなく、まわりの声も気にせずに、庭園の下方を流れる小川で洗濯物は自分で洗った。娘たちは、将軍が与えた四輪馬車に、喜んで乙にすまして乗り込むと言ったふうになったが。

 そんな時、家族全員を大騒ぎさせる報せが届く。三男リュシアンが結婚したのだ。その結婚は、家族の誰にも前もって知らされなかったばかりでなく、母親の許しも求められなかった。レティツィアは、この報せをうけて、非常に怒りまた深く悲しんだことだろう。そもそも息子が母親の意見を聞かずに結婚すると言うこと、それはあまりにもコルシカのしきたりから遠く、彼女には考えられもしないことだった。ナポレオンもまた、この結婚を非難した。これが、表面上の和解にもかかわらず20年続くことになる二人の兄弟の間の不和の、最初の原因になったのだ。

 しかし、レティツィアは一時の感情に流されない。彼女は、家族がこのことでバラバラになったりしないように努める。それこそ、彼女が後々もとってゆく態度なのだ。どんなことをしてでも、ボナパルト家の結束だけは固くしていくこと、一族のメンバーが仲たがいしたときは、和解させること。

 さらにレティツィアを気も狂わんばかりにさせる報せが届く。ナポレオンがニースで逮捕されたのだ。「テルミドール9日のクーデター」が起こり、ロベスピエールとともに断頭台に上った弟オーギュスタン・ロベスピエールと非常に親しい関係にあったナポレオンはロベスピエール派と見なされたのだ。10日ほど投獄され、「過激派危険分子」とみなされて南仏での軍務を解かれ、パリに出ることになる。苦しい日々が続いたが、1795年10月5日に起きた事件がナポレオンに転機をもたらす。王党派の反乱だ。このとき、反乱鎮圧の任に就いたのが、テルミドールのクーデターの首謀者の一人バラス。自分で軍を指揮する自信のないバラスはナポレオンに指揮権を委ねる。王党派の反乱軍が2万~2万5千に対し、政府が動かせる兵力はわずか5千。ナポレオンはパリの街中で大砲を使用するという大胆な作戦で反乱を1日で鎮圧。これを機に第一線に復帰し、中将に昇進。10月26日にはパリ周辺を管轄する内国軍最高司令官に任命される。

 しばらくしてナポレオンはレティツィアに手紙でこう書く。

「家族に5,6万フラン送りました。・・・もう家族も困らない・・・。何もかも十分なはずです」

 しかし、レティツィアが倹約の習慣を捨て去るようなことはなかった。娘たちが、この彼女たちの若さには危険な金を大急ぎで使いたがるようなときには、厳しいマードレ(母)は彼女たちを叱責した。そして、異議などは受け付けず、浪費しようとする子供たちを制して取り上げられるだけのすべてを急いで貯金にまわしてしまう。レティツィアは吝嗇だった。しかし、彼女にあってそれは決して悪徳ではない。将来を見越していたのであって、それは自分のためではなく、家族のためなのだ。一族のほかの者たちと違って彼女は息子に何ひとつ要求しなかった。彼が送ってきてくれるものだけで満足した。ちょっとした手紙でも、ナポレオンが、レティツィアにとっては地獄のように思われるあのパリで、自分を忘れていないということがわかるだけで、彼女はとても幸福だったのだ。

 レティツィアがこの新鮮な幸福になれ始めたころ、まさに青天の霹靂の知らせが届く。ナポレオンが結婚したのだ。リュシアン同様自分に何の説明、断りもなく。しかも相手は、パリの女(コルシカ女のレティツィアにとっては、「ふしだらな女」と同じ)。それに、未亡人で、年上で、二人の子どもまでいる!

「テルミドール9日のクーデター」  ロベスピエールの死刑執行    

 これによって恐怖政治は終了した

「テルミドール9日のクーデター」

詰め寄るジャコバン派を抑えて演壇を占拠し弾劾を続けるテルミドール派。ナイフを振りかざしているのがタリアン

ジャン=ジョゼフ=フランソワ・タサール「マクシミリアン・ロベスピエールの逮捕」

ポール・バラス

王統派の反乱を鎮圧するサン・ロック教会前のナポレオン  サントノレ通り

王統派の反乱を鎮圧するサン・ロック教会前のナポレオン

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