「ナポレオンを育てた母と妻」6 コルシカ追放

 ナポレオンはイギリスから帰国した独立運動の第一人者パオリを尊敬し、その指導の下に活動することを望んでいた。しかしパオリは違った。彼はナポレオンの父シャルルが親仏派になったことを恨んでいたから、初めからナポレオンのことを快く思っていなかった。両者は政策面でも次第に対立するようになる。ナポレオンがフランスとの同盟を説いたのに対し、パオリはイギリスとの同盟を望んでいたからだ。

 この間、パオリはレティツィアに自分の友人の一人を密使として遣わした。自分の主張の方がずっと確かだと言うこと、そして彼女の息子たちの主張の方がばかげているということを、彼女に納得させようとして。密使はレティツィアに「パオリは今もあなたにあふれんばかりの愛情を抱いています」と言う。彼女は、少々感動して耳を傾けていた。彼女もまた、自分と自分の夫にとって神であった人物を、心の底では、今も愛情を抜きにしては考えられなかったのだ。しかし、彼女はナポレオンとの会話でもう大分以前から、コルシカにとっての救いはフランスと決定的な一体化以外にはないと確信していた。「わたしには法は二つありません」ときっぱりパオリの申し出を拒否。この後、彼女がパオリの密使をどんなふうに迎えたかということをナポレオンに話した際、彼女はこう言った、彼女にとってすべてであったコルシカのことを。

「コルシカなんて、不毛の岩山にすぎないよ・・・。土地もごくわずかだし・・・。フランスはそこへいくと、広々として、豊かで人口も多い。そのフランスが真っ赤に燃えているんだよ。立派な燃え上がりよう!思い切って身を焼いて見ることだよ!」

 レティツィアは、次男のナポレオンを一家の中心と考えていて、その結果としてブオナパルト家の運命と彼の運命とを同一視していたから、彼女はフランス人のために動こうと、そしてコルシカ分離主義(パオリ派)のあらゆる企てには反対しようと、きっぱり心に決めていた。それによってコルシカでボナパルト家が砕け散ることになるだろうこともわかっていたが。しかし、レティツィアの眼からすれば、それがどうだというのだろう、一家の運命がフランスで花開くことになるならば。

 ボナパルト家がコルシカを追放されるきっかけは、フランスの国会(国民公会)がパオリをイギリスの手先として告発したことによる。その原因が、ナポレオンの弟リュシアンがトゥーロンの革命派にパオリを《裏切者》と告発したことにあったからだ。1793年4月、国民公会はパオリの召喚を決定したが、パオリは応じない。トラブルの源がリュシアンであることを知ったパオリは激怒。今度という今度は、パオリがレティツィアに抱いていた愛情も、もはや問題にならない。怒りに燃えたパオリはシャルルの息子たちへの復讐を誓う。民衆の憤怒にさらされるレティツィアとその子どもたち。もはやコルシカにはいられない。

 こうしてボナパルテ家一家全員がコルシカ島から追放され、「祖国コルシカに自由と独立を回復させる」という少年時代からのナポレオンの夢は破れた。もはやナポレオンには、コルシカ人であることをやめ、フランス人として生きるしか道はない。

 しかし、ブオナパルテ一家が乗った帆船が到着したトゥーロンは全くの無政府状態だった。政治クラブ員だけが力を握っていた。折しも二隻の艦船の乗組員が、士官たちに対し反乱を起こし、艦長の死刑宣告を要求していた。すでに、参謀総長ド・ロシュマールは絞首刑にされ、海軍総司令官ダルジャンソンは拷問にかけられ、八つ裂きにされていた。監獄は《反革命分子》であふれ、毎日、虐殺や死刑執行への期待にひとびとは胸躍らせていた。また物資は著しく欠乏し、パンは定価販売から割り当ての配給に変わった。トゥーロンに着いたブオナパルテ一家のひとびとすべてが味わったのは「嫌悪と恐怖の感情」だった。

 しかし、ナポレオンの運命を大きく変え、出世街道を歩ませることになる舞台もここトゥーロンなのだ。一家がコルシカを追われてから3か月後の1793年9月、ナポレオンはトゥーロンを攻囲する共和国軍の砲兵隊指揮官に選任される。そして彼の指揮の下、見事勝利を収める。

「パスカル・パオリ」バスティア美術館 コルシカ

「パスカル・パオリ像」コルテ コルシカ

トゥーロンの位置

港湾都市トゥーロン

「1793年11月30日の朝、トゥーロン包囲戦」

エドゥアール・ディテール「トゥーロン包囲戦のボナパルト」

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