「ナポレオンを育てた母と妻」5 フランス革命勃発

 1785年2月24日、レティツィアの夫シャルルはわずか38歳で亡くなる。死因は胃ガン。この時レティツィアは35歳。長男ジョゼフは彼女のそばにいたが、ナポレオンはまだパリの陸軍士官学校の学生。彼女のもとには、7歳のルイ、5歳のマリア・パオレッタ、それに3歳のマリア・ヌンツィアータが残された。それだけではない。哺乳をしなければならない赤ん坊のジェロームもいた。夫の思い出に浸っていられる暇などなかった。後に、セント・ヘレナの孤島でナポレオンは、医師のアントマルキに次のように語っている。

「ひとり残され、導いてくれるひとも後ろ盾もなく、わたしの母は事業の指揮をとらねばならなかった。しかしその重い荷物は、彼女の力にあまるということもなかったのだ。彼女はすべてを賢明なしかたで管理、運営したが、その明敏さは女性でしかもその年齢では、とても考えられぬほどのものだった。ああ、君、なんという女性だろう!」

 彼女の美しさはなお輝くばかりだった。シャルルの子どもたちの第二の父親になろうという富裕な崇拝者には事欠かなかった。しかし彼女は再婚の話をことごとく断る。話を聞こうとすらしなかった。シャルルに示した友情をこどもたちのうえにもきっと及ぼしてくれただろうマルブフ総督も1786年9月に、彼の愛したコルシカで亡くなってしまっていた。以後レティツィアは、8人の子供たちのためだけに生きてゆく。母として、ただ母として生きてゆくことになる。

 陸軍士官学校に入って1年後の1785年9月、ナポレオンは少尉任用試験に合格し、砲兵将校に任じられる。ふつう2年必要とされていたところを猛烈に勉強して1年で合格した。彼は、父親の死以来なにがなんでも士官学校は1年だけで卒業して砲兵隊に入隊を許されねばならないことを理解していた。しかし、ヴァランスのラ・フェール連隊に配属されたナポレオンの俸給は800リーヴル。母親がたたかっている困難な状況を知っていても、彼が一家の生計を金銭的に援助することは不可能だった。彼は猛烈に勉強していたが、それで過労に陥り、健康状態も悪化。アンシャン・レジーム下のフランスで、貧乏貴族のナポレオンが輝かしい未来を描けるはずもなく、死を願うようになりさえした。ただ一つの希望はコルシカ。1786年の春に、彼はこう書いている。

「コルシカ人は、正義の法に従って、ジェノヴァのくびきを脱することができたのだ。同じように、フランスのくびきを脱することができるだろう。アーメン」

 1789年7月14日、そんな状況を一変させる事件が勃発。バスティーユ監獄の陥落、フランス革命だ。ただし、ナポレオンは民衆の示威運動にはほとんど惹かれない。むしろ嫌悪を感じた。しかし、8月4日の「封建的諸特権の廃止」には喝采せざるを得ない。それによって「セギュールの布令」(1780年、セギュール陸軍大臣によって、士官への道、昇進などは身分により厳しく制限された)が廃棄され、ナポレオンのような小貴族にも昇進の道が大きく開かれるからだ。ナポレオンは、新しい状況がなんと広大な地平をおのれの野心に対して開いてくれることか、と理解するようになる。彼は曹長のひとりに言っている。

「革命は、才気と勇気のある軍人にとって、またとない機会だ」

 迷わず革命の側についたナポレオンにとって、フランスがどうなるかなどどうでもよかった。大事なのは「革命によってコルシカがどう変わるか」。革命によってコルシカにおけるフランスの権威が揺らいだ今こそコルシカに自由を取り戻す好機、と考えたのである。休暇を利用してコルシカに入り浸って活動するナポレオンを、レティツィアは一人前の男性と考え、かつて夫シャルルに対してつねにそうしていたように、やりたいようにやらせた。あらゆる場合に意見を同じくするというわけでもなかったが。しかし、1790年7月に独立運動の指導者パオリが帰国すると事態は急変する。

ブリエンヌ兵学校時代のナポレオン

   雪合戦で軍事的天才ぶりを発揮する

ブリエンヌ兵学校時代のナポレオン

  勉強するナポレオン 数学・歴史・地理は抜群だった

パリ士官学校時代 読書に耽るナポレオン 

 アレキサンダー大王、フリードリヒ大王などの「英雄伝」を読み漁った

「ナポレオンの生家」アジャクシオ

ナポレオンの生家のダイニングルーム

「ナポレオン像」フォッシュ広場 アジャクシオ

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