「ナポレオンを育てた母と妻」4 ナポレオンの父は誰?

 コルシカ独立戦争に敗北した司令官パオリはイギリスに亡命したため、フランスとの降伏条約に調印したのはパオリの副官だったレティツィアの夫シャルル。彼は親フランス派に転向し、巧みに立ち回る。1769年にはかつて学んだピサ大学から法学博士の免許状を与えられ、裁判所の判事に任命される。初めは「愛国的な嫌悪感から」ためらった、と言われるが、現実主義の処世術に徹するシャルルにすれば、敗れた大義に殉じて英雄気取りになるほどおろかなことはない。若き日の潔癖なナポレオンは、父のこの無節操がいまいましかった。

「わたしは、パオリの副官だったくせに、コルシカのフランス併合に協力した父がどうしても許せない。父は運命に従って、彼とともに死ぬべきだったろう」

 しかし、この言葉通りになっていたら、皇帝ナポレオンは誕生しなかった。シャルルがいさぎよく「対仏協力派」に踏み切ったからこそ、ナポレオンの陸軍幼年学校入港が実現し、フランス軍士官の道が開けたのだから。

 シャルルは見栄っ張りで社交的な性格で、苦しい家計にはお構いなしに、のんきに外で散財して歩いた。そうした費用も何とか捻出しつつ、一家をとりしきっていたのが母親のレティツィアだった。子どもたちの教育にほとんど注意を払わない父親に代わって、ひとりで子供たちの教育にもあたった。彼女のしつけは厳しかった。教会のミサに行くふりをして遊びに行ったりしたことが後でばれると、「ミサをさぼったことよりも、そういう嘘やごまかしがよくない」と言って、ナポレオンをひっぱたいた。足の悪い祖母の後ろを歩き方を真似して歩いたときは、ナポレオンはズボンを脱がされ、とくにこっぴどく尻をひっぱたかれた。

 こんなレティツィアのイメージからは想像もできないのだが、当時からレティツィアがマルブフ総督の愛人だという噂があり、1776年から1784年の間のある時期、二人は愛人だったと主張する者もいる。そして、なんとナポレオン本人が母親と総督との間に関係があったことを認めるような発言をしている。ナポレオンがエジプト遠征から帰って来る船上で、遠征に同行した数学者のガスパール・モンジュにした打ち明け話だ。

「星空のもと、波のざわめきに包まれて、自分自身に語りかけるように、彼(ナポレオン)は出生の醜聞めいた話題を話し始めた。・・・その母上とコルシカ総督マルブフとのすでに知られた関係、そして子どもたちへのマルブフの庇護をほのめかしたあと、彼は実の父親をどんなに確信のもてるかたちで知りたいかを話した。彼の挙げた理由は、自分の軍事的天分が誰から伝えられたのかを知りたい、というものだった・・・」

 ナポレオンが、その突出した軍事的天分の由来を、シャルル以外の軍人にもとめようとした気持ちはわかる。しかし、その可能性は否定せざるをえない。ナポレオンは1769年8月15日に生まれているから、母親の体内に宿ったのは1768年11月ということになる。その時期にマルブフはコルシカにいたが、当時の独立派とフランスの緊張した関係から見て、レティツィアが総督に身を任せた可能性はない。総督も当時ヴァレーズ夫人と一緒に暮らしていて、この女性との関係は1775年か1776年まで続いた。そもそも当時のコルシカは、そこを旅行したイギリス人ジェイムズ・ボズウェルが『日記』で書いているように、島の住民は「非常に節度があり」、そして彼らの道徳は「厳しく、彼らの純潔な生活はめったに見られぬほどのものだ・・・。道徳はそこでは名誉の観念と密接に結びついている・・・。」コルシカでは、何よりもまず、名誉が大事。そして島の習俗は中世以来いささかも変わらなかった。名誉に対するあらゆる過誤は、血ですすがれる、コルシカはそういう島だった。ナポレオンが母と総督の関係を疑ったのは、彼の中に総裁政府時代(1795年~99年)のあまりにも安易で退廃的な風俗が染み込んでいたためと考えるのがよさそうだ。

ジャン=レオン・ジェローム「スフィンクスの前のナポレオン」ハート・キャッスル カリフォルニア州

ヴィオレ・ル・デュック「4人の兄弟を伴ったローマ皇帝の姿のナポレオン」ド・ゴール広場(別名ディアマン広場)アジャクシオ

ジロデ・トリオゾン「シャルル・ボナパルト」ヴェルサイユ宮殿

アントン・ラファエル・メングス「シャルル・ボナパルト」メゾン・ボナパルト アジャクシオ

シャルル・ルイ・ド・マルブフ伯爵 コルシカ総督

ガスパール・モンジュ

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