「ヒトラーとは何者か?」13 政治家への道(2)演説の才の発掘

 反革命政権は、ヒトラーを政治工作員として活用する。具体的には、兵士大衆を啓発して指導するという役目だが、その役割を適切に果たすことができるように、ヒトラーは講義や演習で鍛えられる。当時、軍部は戦勝国の圧力の下、旧軍を解体・再編し、新たな軍(国軍=ライヒスヴェーア)を構築するという困難な課題に直面していた。新たな軍と言っても、その担い手は帝政期からの将官たちであり、新生共和国にふさわしい民主主義的な軍隊が生まれる余地はほとんどなかった。むしろ戦争末期に軍紀が乱れ、兵営が反戦・革命運動の温床となったことへの反省から、将兵に対する民族主義的、愛国主義的な政治教育・思想教育の必要性が説かれていた。ベルリンではそのための特別な教育課程がすでに導入されたが、ミュンヘンではこれから始まろうとしていた。その責任者はカール・マイヤー(1883-1945)大尉。大戦中は参謀本部付き将校として活躍し、敗戦後は軍の再建に携わりながら、バイエルン軍第四集団(1919年5月、レーテ共和国の鎮圧に関わった部隊をもとに作られた)司令部の宣伝・諜報部長を務めていた。ヒトラーの隠れた弁論の才能を発掘し、彼を「第一級の国民的演説家」に育て上げたのが、この人物だ。

 マイヤーが開いた研修コースの講師はミュンヘンでは名の知れた保守派・右派の論客ばかり。経済学者ゴットフリート・フェーダー。彼は「利子奴隷制の打破」、つまり利子制度を「ユダヤ的資本主義」の本質ととらえ、その廃絶と銀行の国有化を唱えて左右両陣営から注目されていたが、ヒトラーに反ユダヤ主義を開眼させた人物と言われる。歴史の講演を行ったのは、マイヤーを学校時代から知る、ミュンヘン大学の歴史学教授カール・アレクサンダー・フォン・ミュラー。初回講演の後、ミュラーは、しわがれ声で情熱的に話す男を囲んで座る小さな集団をみかけた。次の講演の後、ミュラーは、訓練生の中に生まれつき演説の才のある者がいるとマイヤーに告げる。ヒトラーの雄弁の才が目にとまったのだ。ヒトラーは、宣伝・諜報部が立ち上げた教宣部隊のスタッフに任命される。

 1919年8月19日、ヒトラーはアウグスブルク近郊のレヒフェルトの軍キャンプ地(5日間のコース)に26名の講師の一人として派遣される。そして「講和条件と復興」、「移民」、「社会的、政治的、経済的スローガン」などの講演を行った。熱心に任にあたる中で、ヒトラーは、自分が聴衆の共感を引き出せること、冷笑しながら聞いている消極的な兵士をも奮起させる話し方ができることにすぐに気づく。ヒトラーは生まれて初めて、無条件にうまくいくこと、おのれの最大の才能を見出したのである。

「私は大変な情熱と思い入れを持って取り組んだ。大勢の聴衆の前で話をしてみないかと突然言われたためだ。分かっていたわけではなく、感覚的にそうではないかと常々思っていたことが、今、確証された。私は「弁」がたったのだ。・・・このちょっとした成功を誇ってもいいだろう。講演しているうちに、私は何百人、何千人もの戦友を国民と祖国への思いに立ち返らせた。私は軍を「ナショナルな心情に立ち戻らせた」のだ。」(ヒトラー『我が闘争』)

 レヒフェルトでヒトラーが扇動のために多用したのは反ユダヤ主義。ただし、ユダヤ人を激しく攻撃したと言っても、当時のミュンヘンで広まり、世情報告にも取り上げられていたような意見を取り入れたに過ぎない。それでも、ヒトラーはチーム内で「ユダヤ人問題」の「専門家」とみなされるようになる。「ユダヤ人問題」を社会民主党政府の政策との関連で説明してほしいと求められ、1919年9月16日付で回答しているが、その内容はこうだ。反ユダヤ主義は感情ではなく、「事実」に立脚しなければならない、その第一はユダヤとは宗教ではなく人種の問題だということだ、とヒトラーは書く。感情的な反ユダヤ主義はポグロムを惹起する。それに対して、「理性」に基づく反ユダヤ主義はユダヤ人の権利の体系的剥奪へといたる。「その最終目的がユダヤ人の完全な排除であることは間違いない」とヒトラーは結論づける。これ以降、ベルリンの地下壕での最期の日まで変わることのない、ヒトラーの世界観の中核的要素が初めて形をとった。

ヒトラー 第一次大戦中

ゴットフリート・フェーダー 1930年

カール・アレクサンダー・フォン・ミュラー 1929

ヒトラー 1920年代前半

ヒトラー 1921年

演説するヒトラー 1927年 ポストカード 

 チャールズ・チャップリンは「この顔はもはやコミカルではなく、不気味である」という感想を残している

演説するヒトラー

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