「ヒトラーとは何者か?」12 政治家への道(1)「赤色革命」

 ヒトラーがまだパーゼヴァルクの病院にいた1919年10月末から11月初旬にかけて、北海に望むヴィルヘルムスハーフェン軍港での兵士の反乱に始まったドイツ革命は大きな都市や町のあらかたを呑み込んで急速に広がる。兵士の反戦運動に労働者が合流して「労兵評議会」(「レーテ」Arbeiter-und-Soldatenräte。ロシア革命で生まれた「ソヴィエト」にならった自発的な統治機構)がドイツ各地に組織された。不毛な戦争で人々に塗炭の苦しみを敷いた軍部や行政当局は、住民の信頼をすでに失っていた。確かに、この革命は混乱し、大勢において自然発生的でまとまりを欠いていたが、右翼勢力が主張するように裏切り者の急進左翼革命家の陰謀から発したものではなかった。大きく広がった不満から生じたものであり、戦争をやめて銃後の飢えと苦難に終止符を打つこと、それを実現できない帝政を廃止することを求める大衆の抗議が高じたものだった。

 1918年11月9日、社会民主党のフィリップ・シャイデマン【1865-1939】が「ドイツ共和国」の発足を宣言。これが、翌年、正式に成立する「ヴァイマール共和国」の始まりである。皇帝ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命。ホーエンツォレルン家(プロイセン王国)は消滅し、ドイツ帝国は、各地の王国などとともにあっけなく崩壊した。臨時政府(人民代表政府)の首班となったのは社会民主党のフリードリヒ・エーベルト。第一次世界大戦まで「帝国の敵」と呼ばれ、一度も政権に与したことのなかった人物が政権の座に就いたのだ。これが世に言う「11月革命」である。しかし12月末、独立社会民主党が政府から離脱。1919年1月初旬、新たに結成されたドイツ共産党の支持者ら急進左翼が「スパルタクス団蜂起」(1919年1月5日~1月12日)を起こすと、その鎮圧に社会民主党政府は軍と反革命の義勇軍を投入する。革命の右傾化が決した瞬間だった。1月15日には、スパルタクス団の指導者カール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクが殺害された(二人は共にユダヤ人)。

 ミュンヘンでは、1918年11月7日~8日にベルリンに先駆けて革命が起こる。800年続いたヴィッテルスバッハ家(バイエルン王国)が瓦解し、急進派のクルト・アイスナー【1867-1919】(独立社会民主党。ユダヤ人)が「自由国バイエルン」の創設を宣言。首相として新政権を率いて社会主義革命の遂行を訴えた(2月21日、反対派によって暗殺。穏健派のアイスナーの死によりミュンヘン革命は先鋭化し、極左勢力による「レーテ共和国」樹立、そしてその反動である右派義勇軍による復讐へと発展していく)。失意のアドルフが戻った(1918年11月21日)ミュンヘンは、こうした革命騒乱の中心地だった。戦地から続々と引き揚げる兵士の多くがすみやかな復員を求めたのとは対照的に、アドルフは軍務に止まることを望んだ。なぜか?一日でも長く軍籍を維持し、寝食と仕事、安定した俸給を得るためだ。国境警備か治安業務を志願すれば除隊を免れると知ったアドルフは、捕虜収容所での監視兵業務を願い出て認められる。しかしその収容所は早々に閉鎖されたため、その後は復員業務に従事した。

 帰還兵士の中には、街頭に出て革命運動の鎮圧に加わる者もいたし、義勇兵となってバルト海方面へ出撃して反ボリシェヴィキ闘争に身を投じる者もいた。アドルフはどうしたか?彼は連隊兵舎から出ようとしなかった。アドルフが後に繰り返し「11月の犯罪者」と呼んで糾弾することになる者たちがミュンヘンを統治していたにもかかわらず、この時期のアドルフの行動に、後の「指導者ヒトラー」を彷彿とさせるような断固たる政治姿勢は見られない。

 では、いったい何をきっかけにヒトラーは希代の政治家への道を歩み始めたのか?最初のきっかけは、30歳の誕生日を迎える1919年4月に兵営内の選挙で兵士評議会(レーテ)の一員に選ばれたこと。ただし、代表に選ばれたものが革命派とは限らず、ヒトラーももちろんそうではなかった。しかし、これは社会民主党と独立社会民主党の革命政府に使われる形でヒトラーが初めての政治的業務を行ったことになるため、この時期の行動について後にヒトラーは話したがらなかった。ヒトラーは、「赤色革命」の絶頂期にも関与し続け、ミュンヘンの「赤色共和国」の鎮圧に力を尽くさなかったどころか、大隊の代表に選出され続けた。

 5月になってミュンヘンのレーテ政権は、ヴァイマール共和国政府が動員した反革命義勇軍に打倒され、ヒトラーの属していた第二歩兵連隊内にも粛正委員会が設置されると、ヒトラーはその委員に抜擢。任務は連隊内の革命分子に関する調査・摘発。ヒトラーはそれを淡々とこなし、上官の評価を得た。

ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒト

1918年11月9日 共和政を宣言するシャイデマン

国会議事堂でドイツ共和国成立を宣言するシャイデマン

フィリップ・シャイデマン

フリードリヒ・エーベルト

臨時政府閣僚(左からランドスベルク、シャイデマン、ノスケ、エーベルト、ヴィッセル)

グスタフ・ノスケ 1918年頃 

 ヴァイマル共和政最初期に国防相を務め、スパルタクス団などによる左派の暴動を右派義勇軍を使って武力鎮圧した

蜂起するスパルタクス団員

スパルクス団蜂起 1919年1月12日 バリケードを利用して行われた銃撃戦

ローザ・ルクセンブルク 1895年~1905年

カール・リープクネヒト 1911年頃

クルト・アイスナー 

 1919年2月21日の穏健派のアイスナーの暗殺によりミュンヘン革命は先鋭化し、極左勢力によるレーテ共和国樹立、そしてその反動である右派義勇軍による復讐へと発展していくことになる

ミュンヘンのアイスナー暗殺地点にあるモニュメント

ベルンハルト・フォン・ヒュルゼンが組織した「ヒュルゼン義勇軍」の募集ポスター 

 同義勇軍はスパルタクス団蜂起の戦闘にも参加した。

装甲車を装備した義勇軍  1919年

エルンスト・レーム 

 エップ義勇軍に参加し、バイエルン・レーテ共和国を壊滅させる。後にナチ党の準軍事組織である突撃隊(SA)を統率し、同党の政権把握に大きく貢献。

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