「ヒトラーとは何者か?」11 第一次世界大戦(3)ドイツ帝国敗北

 アドルフは3年8カ月に及ぶ西部戦線での戦闘を生き抜き、1918年7月後半、彼の連隊は第二回マルヌ会戦(7月15日~8月6日 第一次世界大戦でのドイツ軍最後の大攻勢)に加わる。しかしこの攻勢は失敗し、ドイツの軍指導部が大戦の敗北を認めざるを得なくなる転換点となった。アドルフ自身は、1918年8月、上等兵としてはきわめてまれな「一級鉄十字章」を授与される。フォン・ゴディン中佐が7月31日に提出したアドルフについての叙勲申請書にはこう書かれていた。

「同人は伝令手として、陣地戦においても移動戦においても模範的な冷静果断さを示し、きわめて困難な状況下において生命の危険を冒し命令を伝達する用意を示した。困難な戦闘状況の下であらゆる連絡が途絶した後に、多くの障害にもかかわらず重要な命令が伝達されたのは、ヒトラーの不屈にして犠牲的精神に富んだ行動のおかげである。・・・小官はヒトラーは一級鉄十字章を授与される資格が十分あると考える」

 一兵卒としてはめったにないこの勲章を授与されながら、アドルフは後年この受賞について全く触れていない。なぜか。実は皮肉にも、この受賞はユダヤ人将校フーゴ・グートマン少尉の推薦によるものだったからだ。しかし後にこの話は、ヒトラーひとりで15名ものフランス兵を捕虜にした功績で一級鉄十字章を受章したとして、ありとあらゆる教科書に載ることになる。

 9月10日から第二回目の18日間の休暇をベルリンで過ごしたアドルフは、9月末、復帰直後にイギリス軍の攻勢にさらされる。いまや毒ガスが広く攻撃に使われるようになっていたが、アドルフのリスト連隊もひどい痛手を受ける。10月13日から14日にかけての夜半、イーペル近郊でアドルフも「マスタード・ガス」(1917年7月にドイツ軍がベルギーのイープル付近で初めて使用したことから,フランス語で「イペリット」と呼ばれる)の犠牲になった。1921年11月29日アドルフは「1918年10月13日の夜、私は毒ガスにやられ、やがてまったく視力を失ってしまった」と書いているが、症状に関する確実な証拠はない。ヒトラーのプロパガンダに関する近年の研究は、ヒトラーがシェルショック(戦争神経症)を偽装したとする見解を示している。いずれにせよ、アドルフは北ドイツのシュテティン(現:ポーランド)近郊、パーゼヴァルクの病院に搬送された。アドルフの戦争は終わった。彼が「今世紀最大の破廉恥」と呼ぶ、敗戦と革命の衝撃的な知らせが届いたのは、パーゼヴァルクで一時的な失明から回復しつつあった時だった。

 ドイツ帝国の敗北は、若きアドルフにとって大きな衝撃であったに違いない。もちろんそれはアドルフだけではなかった。戦場の兵士も銃後の国民も、刻々と移り行く戦局について正確には何も知らされていなかった。耳にするものは、ドイツ軍のプロパガンダ情報で、自国に有利なものばかりだった。アメリカ合衆国が敵の陣営で参戦したことは大きな痛手だったが、同じ時期にロシアで革命が起きてロシア軍が東部戦線を離脱したことは、ドイツの最終勝利への幻想を膨らませた。だが問題は西部戦線だった。ここでは物量に勝る連合軍をドイツは押し戻すことができなかった。1918年春、ドイツ軍の大攻勢は一時的に形勢を逆転させたが、6月には反攻を許し、8月には上官の許可なく舞台を離れるドイツ兵が大量に出始めた。

 ドイツ国内では、戦争の長期化と厳しい海上封鎖のために生活物資・食糧が底をつき、戦争3年目の冬はほかに食べ物がなく「カブラの冬」(1916年から1917年にかけて発生した飢饉状態のこと。飼料用として主に用いられてきたルタバガ【カブラ】を食して飢えをしのいだという逸話に由来。)と呼ばれた。終戦までの2年間、栄養失調が原因で亡くなったドイツ人は30万人に達した。厭戦気運が高まり、1918年1月には、ベルリンで、約50万人が参加した労働者ストライキが発生した。人口の5分の1弱にあたる1300万人以上のドイツ人が大戦中に兵役に服し、うち1050万人が戦地に赴いた。戦死者は約200万人、負傷者は約500万人にのぼった。戦死者の3分の1には妻がおり、ほぼすべてに家族があり、友人がいた。これほどの犠牲を経験すれば、精神に焼けつくような痕が残ることは避けられない。しかし、戦争体験とその影響は実際のところまちまちだった。

従軍時のヒトラー(椅子に座る兵士の右端)と所属部隊の隊員達

一級鉄十字章(1914年賞) 

 制定者ヴィルヘルム2世の頭文字「W」及び制定年度の「1914」が刻印されている。

 第一次世界大戦は長期化・泥沼化したため、約16万人もの軍人が一級鉄十字章を受章した。

第一次世界大戦時の一級鉄十字章(1914年章)を付けたアドルフ・ヒトラー

フーゴ・グートマン 

 1935年、ニュルンベルク法が成立した後、ドイツ国籍を失い、軍の退役軍人から正式に退役したが、ヒトラーの影響により年金を受け取り続けた。1938年、ゲシュタポに逮捕されたが、彼の歴史を知っていたSS要員の影響の結果として釈放された。ベルギーを経て、1940年アメリカに移住。

ルタバガ

「カブラの冬」 ベルリンの飢饉

「カブラの冬」1916年 グラーシュの大鍋の前に群がるベルリン市民

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