「ヒトラーとは何者か?」10 第一次世界大戦(2)伝令兵アドルフ
1914年8月1日土曜日午後6時、ミュンヘンで戦争開始の報がいっせいに流されると、市全体に戦争を支持する興奮の渦が巻き起こった。アドルフも例外ではなく、その報に接し身震いした若者の一人だった。
「わたしは・・・嵐のような感激に圧倒され、思わずひざまずき、神がこの時代に生きることを許す幸福を与え給うたことに、あふれんばかり心から感謝した・・・わたしはハプスブルク王家のために戦いたくなかった。しかしわが(ドイツ)民族とその現れであるドイツ帝国のためには、いつでも死ぬ覚悟があった」(ヒトラー『我が闘争』)
ヒトラーにとって大戦は天啓だった。1907年に美術アカデミーの入学試験に落ちて以来、アドルフは漫然と日を送り、偉大な芸術家にはなれないという事実を前に諦めつつも、どうかするとなれるかもしれないという幻想も捨てきれなかった。入試の失敗から7年を経て、「ウィーンの名もなき存在」だったアドルフは、ミュンヘンに来ても取るに足りない社会の落伍者であり、自分を拒絶する世界に無駄に腹を立てるだけだった。いまだに何の職業的展望もなく、資格もなければ資格を得る見込みもなく、長く続く親友をつくることもできなかった。自分自身とも、挫折して嫌いになった社会ともうまく折り合いをつけられるようになる見込みはなかった。そんなアドルフに、大戦はそこから脱出する道を与えた。25歳になったアドルフは、生まれて初めて、目標、責任、仲間、規律、ある種の恒常的雇用、満足感、そして何より帰属感を得た。生まれて初めて、もしくはブラウナウで母親にかわいがられて何の心配もなく過ごした幼少期以来初めて、アドルフは大戦中に本当に心穏やかにいられたのである。のちにアドルフは大戦期について「それまで生きてきた中で最も素晴らしく忘れがたい日々」だったと述べている。
では、オーストリア人のアドルフはどうやってバイエルン王国軍(ドイツ軍)に従軍することになったのか?
「8月2日のオデオン広場での集会の翌日、バイエルン王ルートヴィヒ3世に兵役許可を書面で直訴、懇請し、その次の日、8月4日にはすぐバイエルン政府内閣官房より兵役許可の書状を受け取り、バイエルン歩兵連隊へ入隊することになり、限りないよろこびにひたった」(ヒトラー『我が闘争』)
これは事実とかけ離れたアドルフの創作。そもそも外国人義勇兵の入隊許可の権限を持つのは内閣府ではなく陸軍省だけ。1924年にバイエルン当局が詳しく調査したが、1914年8月にオーストリアに戻るべきアドルフがバイエルン王国軍に従軍することになった理由は正確にはわからなかった。新兵募集に応じようとする義勇兵志願者があふれかえる中で、恐らくミスによってバイエルン王国軍に入隊したものと結論づけられた。
アドルフの配属先となった第16予備歩兵連隊(連隊長リスト大佐のなまえからリスト連隊と呼ばれる)は、2か月間の速成訓練を行った後、10月21日、西部戦線のフランドル方面へ向けて出陣。10月29日から4日間の戦闘(第一次イーペル戦 1914年10月19日~11月22日)で、リスト連隊の戦力は3600人から611人にまで減った、とアドルフは知人宛ての手紙に書いているが、この最初の犠牲は推定約70%におよんだ。連隊長リスト大佐も戦死した。
アドルフは、激戦中に示した勇敢さが上官や同僚の注目するところとなり、11月3日(11月1日付)上等兵に昇進、11月9日には連帯司令部付きの伝令兵となった。伝令兵というのは、前線の司令部と数キロ後方に位置する司令本部の間を行き来し、司令本部の命令、指示を前線に伝え、また最前線の状況、問題を司令本部に報告する役割を果たす兵士で、弾丸や散弾が飛び交う危険な戦場を常に往復しなければならない。危ないからと言って、腹ばいになったり、塹壕に入ったりして身を守っていたのでは使命を果たせない。12月2日、アドルフは死闘が続く中での伝令としての勇気ある忠実な功績により「二級鉄十字勲章」を授与される。アドルフいわく、その日は「人生で最も幸せな日」だった。
第一次世界大戦終結時のイーぺル 中央が大聖堂の塔、 右側が衣料会館
第一次世界大戦前のイーペル
第一次世界大戦中、ドイツ軍と連合国軍の最前線として長期間戦闘が繰り返され、一時街は廃墟になった
イープルの位置
1914年11月21日 イープル衣料会館の火災
1914年 第一次イープルの戦い (1914年10月19日 ー11月22日)
1914年 イープル( ベルギー)の塹壕にいたドイツ兵
1915年4月 伝令兵仲間 右からアドルフ、アントン・バッハマン、エルンスト・シュミット 右下はアドルフの愛犬フォックス
1914年8月2日 ミュンヘン・オデオン広場で宣戦布告の報に狂喜する群集の中のヒトラー
この写真は大量に複製され、ヒトラーの指導者神話の確立に役立ったが、本当ににその場にいたヒトラーを写したものであるかについては、近年、疑いをもたれている
イーペルの衣料会館
第一次世界大戦で完全に破壊されたが、1967年に再建された。中世ヨーロッパの世俗建築としては最大級の建物だったことがわかる。
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