「ベル・エポックのパリ」10 パリ万国博覧会
1900年のパリ万国博覧会には、世界中から5000万人の人が訪れた。万国博覧会は、1851年、ロンドンの「クリスタル・パレス」(水晶宮)に始まり、その後ヨーロッパ文明の首都ともいうべきパリで、世紀後半に規則的な間隔をおきながら(1855年、1867年、1878年、1889年、1900年)連続して開催された。1900年の万博は、これら一連のイベントの頂点であった。あらゆる万博の目的は、当時よく使われた表現によれば、「事物教育」を施すことであった。「事物」とは主に、科学知識と技術革新によって新しく生み出され、日常生活に大変革を起こしつつあった製品のことであり、「教育」とは、このかつてない物質的かつ知的な進歩を社会に還元することである。
1855年パリ万博の呼び物は、「パレ・ド・ランデュストリー」(産業宮)であり、そこには道具類や機械類、製造業の諸段階における製品が所狭しと連続的に展示された。1867年のパリ万博には、一段と精巧に組織された「パレ・ド・ランデュストリー」(そこには初めてアルミニウムと石油の蒸留が展示された)と、すべての時代の道具を集めて見せる「労働の歴史」の展示があった。1878年パリ万博では、科学上の発見の驚異、とりわけ電気と写真に力点が置かれた。1889年、フランス革命百周年を記念する万博では、「事物教育」は大々的な規模で行われた。この年の万博の二つの焦点は、「機械館」とエッフェル塔である。「機械館」は、幅約122メートルのアーチ型天井を持った長いホールで、見物人は空中に設置された歩道から、紡ぎ車やカチンカチンと鳴るハンマーやブーンと音を立てるギヤなどの海を見つめることができた。エッフェル塔は科学的でも技術的でも美学的でもある記念建造物で、その建築は鉄橋の建築に由来した。頂上には、気象学と航空学と通信の研究のための装置一式が取り付けられていた。
何十年かの間に、これらの博覧会の主調は変化した。つまり見物客に近代科学やテクノロジーの驚異を教え込むことから、次第に客を楽しませる方へと力点が移って行ったのである。1889年には、エッフェル塔と「機械館」は、真面目な教育的意図にもかかわらず、何よりもスリリングな眺望を与えたことで人気を博したのだった。そして生産用の道具よりも消費用の商品の方がますます多く展示されるようになった。「クリスタル・パレス」の万博では、まだまったく販売目的を欠いていたので、売値は示されていなかった。しかし1855年のパリ万博においては、入場料が徴収され、すべての品物に値札をつけるという伝統が始まった。それ以来、売ることや鑑賞、広告がしだいに重要視されるようになった。1900年の万博のある後援者などは、次のように感激しているほどである。
「万博は、製造業者やビジネスマンにとっても、もっとも目立つ広告の場を提供する。それはたった一日のうちに、彼が一生の間に自分の工場や店で見るよりももっと多くの人びとを、機械やディスプレーやショーウィンドーの前に運んできてくれる。万博は、世界中に客を探し求め、あらかじめ定められた時間に連れて来てくれるので、客を受け入れ誘惑するためにすっかり準備を整えることができる。出品者の数がどんどん増加している理由はここにある。」
1900年の万博では、消費の感覚的な喜びが、知識の進歩を眺めるという抽象的な喜びにはっきりと打ち勝った。そのことは見物客が記念ゲートを通って敷地の中に入る時点で、明らかだった。当時それを見て感激した人の描写によると、記念ゲートは「旗をひらめかせ、カボション(半球形凸面の装飾モチーフ)で飾られた、淡いブルーの二本の透かし入りミナレット(イスラム教モスクの尖塔)と多色彩色の彫像」を持ち、「巨大なフランボワイヤン様式のアーチ」で完成されていた。そのアーチの上には、金色の玉に乗って、「タイトスカートをはき、パリ市の象徴である船を頭に載せ、白テンの模造毛皮のイブニングコートをなびかせた、空を飛ぶ魅惑的な妖精の像「ラ・パリジェンヌ」が立っていた」。このシックなマドンナが表象したものが何であったにせよ、それが科学やテクノロジーではないことは確かだった。
1900年 パリ万博会場
1855年パリ万博 パレ・ド・ランデュストリー(産業宮)入口
1867年パリ万博 全体の鳥瞰図
1878年パリ万博 会場
セーヌ川を挟んで右はトロカデロ宮(シャイヨー宮)とトロカデロ庭園、左がシャン・ド・マルス
1889年パリ万国博覧会 ポスター
1889年パリ万国博覧会 機械館
1900年 パリ万博会場の正門(コンコルド広場)
1900年 パリ万博 電気館と噴水
1900年パリ万博 電動式「動く歩道」
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