「ルノワールの女性たち」19 モデル②ジュリー・マネ

 ジュリー・マネの母親は、印象派の画家ベルト・モリゾ、そして父親は、ルノワールやモネたち印象派に大きな影響を与えた画家、エドゥアール・マネの弟、ウジェーヌ・マネである。2人は第1回印象派展が開かれた1874年の12月に結婚し、1878年11月14日、パリでジュリー・マネが誕生している。この芸術家一家の一人娘として、ジュリーは裕福で文化的な環境に育ち、繊細で好奇心に満ちた少女へと成長した。ジュリーの両親は、毎週木曜日にパリの自宅で夕食会を開いている。ジュリーは子供のころから大人の食卓に着くことが許されていたが、そこにはルノワール、ドガ、カイユボット、ホイッスラーらの画家、蒐集家のテオドール・デュレ、詩人マラルメやアンリ・ド・レニエなど、芸術家や文学者が集ったのである。マラルメは夕食後に自作の詩を朗唱し、食堂の壁にはマネ、モネ、ルノワールの絵画が飾られていた。

 ルノワールとモリゾは画家として互いにその才能を認め合い、刺戟しあって、二人は生涯にわたり親密な間柄にあった。モリゾは女性としても、芸術家としてもルノワールが最も高く買っていた人物で、彼に言わせれば「18世紀的繊細さと優美さにあふれた女性、つまりフラゴナール以来最後の、上品な『女性らしい』画家」であった。モリゾはジュリーを連れてモンマルトルの丘を登り、ルノワールの家を訪れ、ルノワールのアトリエで彼の新作を観ている。ルノワールは9歳のジュリーの肖像《ジュリー・マネ(猫を抱く子ども)》(1887年)をはじめ、《ジュリー・マネの肖像》(1894年)を彼女らの家で描いた後、自らのアトリエにベルトとジュリーを招き、《ベルト・モリゾと娘のジュリー・マネ》(1894年)を制作している。

 1894年前後のジュリーには、不幸な出来事が続けて起きている。1892年、父ウジェーヌが長年の病によって亡くなり、翌1893年には母モリゾの長姉、ジュリーにとっては伯母のイヴ・ゴビヤールが二人の娘を残して歿した。さらに1895年3月、母ベルト・モリゾもインフルエンザによる肺炎で急逝してしまう。享年54歳。

「どうしよう。前に日記を書いたと思ったら、いまはもうママンはいない。3月2日土曜日の夜10時半、ママンは亡くなった。口にできないほどの恐ろしい不幸、深い悲しみ。いまわたしは、みなし子になってしまった。たった3年のあいだに両親は相次いでわたしから去って行った。」

(『印象派の人びと ジュリー・マネの日記』1895年4月17日)

モリゾは、自分の娘と二人の姪のことを、マラルメとルノワールに託した。ルノワールは、少女たちを家族と一緒にブルターニュに伴ったり、ダンスを踊ったり、彼女らの制作、勉強、デッサンなどを手直しするなど、労をいとわずに面倒をみた。ジュリーはその『日記』の中でルノワールのことを愛情を込めて語っており、アトリエを訪れるたびに、彼の絵画を絶賛していた。

 ベルト・モリゾはルノワールに置き土産をした。彼女は、少々煮え切らない、いつも眠っているような雰囲気をもった1人の若者を知っており、彼にルノワールのことを話していたのである。パリで最も敏腕な画商の一人として名を揚げることになるアンブロワーズ・ヴォラールデアル。彼は、ルノワールに会うためブリュヤール館にやってきた。画家は、この「疲れたカルタゴの武将のような感じ」の若者がすぐに気に入った。

【作品34】「ジュリー・マネ」1894年 マルモッタン美術館

 少し愁いを含んだ目。まるでこの絵が描かれた翌年に母モリゾが亡くなってしまうことを暗示しているかのよう。皮肉にもジュリーから風邪がうつりそれが原因でモリゾは54歳で娘ひとり残しこの世を去ってしまう。ジュリーはこの作品を大切にしていた。晩年に自宅で撮影された写真がそのことを物語っている。

【作品35】「ジュリー・マネ(猫を抱く子ども)」1887年 個人蔵

 ルノワールは印象派風の柔らかなタッチに加えて、顔の部分などはイタリアで見たラファエロや古代美術の影響もあって古典派風の輪郭線のはっきりした筆致で描いている。少女に抱かれた猫が、19世紀のヨーロッパの比較的裕福な家庭にペットを飼う習慣が広まったことを示す。

1894「娘ジュリー・マネ」マルモッタン・モネ美術館

1887「ジュリー・マネ(猫を抱く子ども)」オルセー美術館

1894「ベルト・モリゾと娘ジュリー・マネ」

ベルト・モリゾ「ジュリー・マネとセキセイインコ」1890年

ベルト・モリゾ「夢見るジュリー」1894年

ジュリー・マネ 16歳 1894年

ベルト・モリゾ 1877年頃

マネ「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」1872年 オルセー美術館

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