「ルノワールの女性たち」16 パトロン③ポール・ベラール
ルノワールは、上流市民階級の肖像画を描くことによって名声と経済的安定を得ようとした。しかし、それは同時に、芸術的な代価をルノワールに要求することになる。つまり、繰り返しの姿勢、きざな上品さ、感傷的な甘さなどによって、芸術的な探求がないがしろにされてしまうからである。
40代に突入(1881年 40歳)したルノワールは自らの画風に限界を感じるようになっていた。悩み模索するルノワールは晩年になって画商ヴォラールにこう語っている。
「1883年頃、私の仕事に裂け目のようなものが生じたのです。私は印象主義の袋小路にはまってしまい、もはや、どうやって描くのかがわからなくなったのだ、という結論に至りました。要するに私にとって印象主義は行き止まりだったのです」
同じような内容で、より率直な発言を息子ジャンは耳にしている。
「自分がどういうことになっているのかさっぱり分からなかったね。溺れかかっていたんだよ!」
ルノワールは10年間ほど、試行錯誤、迷い、自信喪失を繰り返した。彼がまずめざしたのは、くっきりとした輪郭を持つ人体の描写だった。それはラファエロや19世紀初めのアングルらの影響だった。この時期のルノワールはしばしば「アングル風」と呼ばれる。しかしその作風は、いままでの顧客や愛好者たちからは不評だった。1880年代末、ルノワールは古典主義的な線の探求と印象派時代の鮮やかな色彩の効果との融合を図るようになる。
ところで1879年、《シャルパンティエ夫人と子どもたち》がサロンで大成功をおさめ、これを機にルノワールのもとには裕福な顧客から、家族の肖像画や彼らの邸宅を飾るための装飾画の注文が相次いだ。サロンで一躍有名になる2か月ほど前にルノワールは、彼にとって後に重要な支援者となる外交官で銀行家のポール・ベラールと知り合う。ノルマンディー地方の港町ディエップの北約10㎞に位置するヴァルジュモンに別荘を持つベラールは、夏になるとルノワールを別荘に招き、ルノワールはヴァルジュモン滞在中に多数の作品を制作した。
【作品27】「ヴァルジュモンの子供たちの午後」1884年 ベルリン絵画館
ルノワールがポール・ベラールの注文で製作した最も重要な作品で、ヴァルジュモンの館で描かれた。右側で椅子に座って縫い物をしているのが長女マルト(14歳9、人形を手にして立つのが三女リュシー(4歳)、左側でソファーに座り本を読むのが次女マルグリット(10歳)。厳しい輪郭線と静穏な構図は画家の古典主義への傾斜を示す。1870年代の印象派時代のルノワールの肖像画でのモデルたちの自然な様子と異なり、ベラールの娘たちはこわばったようにも見える。以前の作風を好んでいた愛好者たちはこのことにがっかりさせられたのだろう、ルノワールへの注文が減る原因となってしまう。
【作品28】「テレーズ・ベラール」1879年 クラーク美術館
この作品は、1879年の7月から9月にかけて、ルノワールがベラールの別荘を初めて訪れた際に描いたもので、モデルはベラールの兄でヴァルジュモン城の隣に城をもつエドゥアール・フィリップの13歳の娘テレーズ。青紫の色面を背景に、特にポーズをとることもなく、視線を落として佇む少女が描かれている。シンプルな構図ながら、背景の豊かな色調とリボンの鮮やかな青色が呼応し、少女の陶器のような滑らかな肌や白いブラウス、ところどころに配された淡い黄色と美しいコントラストを成している。広い額と黒目がちな目、きりりと締まった口元はモデルの特徴を忠実にとらえ、全体に青みがかった画面の中にくっきりと浮かび上がる上品で利発そうな表情が印象的である。
【作品29】「白いエプロンのリュシー・ベラールの肖像」1884年 ペレス・シモン・コレクション メキシコ
これはポール・ベラールの末娘、リュシーの肖像画。印象派の筆遣いではなく、正確なデッサンをして描いているアングル風の作品。まだ4歳の無垢な少女の可憐な感じが、透き通るようなきめ細やかな肌や、きれいな瞳で表現されている。柔らかな金髪の艶、エプロンの素材感も細やかに再現されている。少女のあどけなさと大人になるあやういとき、その美しさを丹念に描いている。光による髪のはね具合など、この子供のふくよかな肌の色はルノワールしか出せないもの。
1879「テレーズ・ベラール」
1884「リュシー・ベラール」
1884「ヴェルジュモンの子供たちの午後」
1879「小さな学生(アンドレ・ベラール)」
1879「マルト・ベラール」
1879「マルゴ・ベラール」
1879「ポール・ベラール夫人」
1880「ポール・ベラール」
1881「ポール・ベラールの子供たちの習作」
1883「リュシー・ベラール」
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